大威徳寺物語 「虚空蔵山と寶心寺」


 中津川市付知町の中央西側に、独立した容姿を見せる標高615b、在所からは200b余の山が虚空蔵山である。この山裾に藤戸山宝心寺がある。この寺の前身は山裾の裏側、在所からは見えない位置にあったようで、寺伝では「鳳慈尾山大威徳寺の末寺で、虚空蔵山の 頂上には虚空蔵菩薩が祀られていた」とある。「虚空蔵」とはその広大無辺の功徳が虚空 (大空)のように大きいという意味である。この菩薩は奈良時代から智慧の仏として厚く 信仰されてきた。旧宝心寺は字猪組平か字松山のあたりにあったというが、道路に分断されていて当時の状況を知る手掛かりはない。庄屋田口家に残る寛永二年(1625)の「産宮神田徐地証文」には「こくぞうさま」が祀られていた記録がある。明治初年の神仏分離令による、苗木藩の激しい廃仏毀釈の余波、新政府の厳しい取り締まりを逃れるため、下付知庄屋小南家の苦肉の策で、祭神は「大国主命」神社名は「国造」の文字を使うように改めて社を存続した。「虚空蔵菩薩」はどこに隠されたのか今は無い。
 『付知町史』には「寄付証文」となっている前記寛永二年の記録の註書きに「壱石五合  阿弥陀様に仕、又七高の内にて引申候」「あみだ様は寺屋敷にあった浄土宗の寺の御本尊と推定される」と書かれている。字寺畑には町指定史跡、現在の宗敦寺の前身「真門山宗頓寺」跡と宝篋印塔などが残る。「阿弥陀如来像」はさまざまな流転を経てアミダ坂の地名を残し、近くの阿弥陀堂に祀られている。
 「禅徳山宗敦寺」裏の大山谷をのぼると峠へ出る。この辺り、峠の平地は広く、加子母  地区角領と境を接する。『付知の遺跡探訪』によると「お山の平に尼寺があった、大威徳寺の偉い坊さんが住んでいた」などの伝承とともに、数基の宝篋印塔・五輪塔が残され、伝説の多いところである。
 廃寺となった宝心寺を再興するように、昭和になってから地元の有志が高野山に懇願し、中興の祖として星島光城和尚が高野山管長の命で着任し、字寺山の現在地に高野山真言宗の寺院として再興された。現在は2代目星島光雅師が継いで見え、本堂、鐘楼などが新築整備され、檀家三百余戸を数える一大寺院となった。
 『般若理趣経』の経文の中に「虚空蔵大菩薩」と「三摩耶寶心」の言葉が出てくる。これが「宝心寺」の名の由来である。と宝心寺住職のお話。
 また、宝心寺には県の重要文化財に指定され、南北朝時代の画僧・明兆作と伝わる「十六羅漢像16幅」がある。十六羅漢とは、釈迦の入滅後、この世にとどまって仏法を護持しようと誓った16人の高弟を指し、古来絵画などの題材となって尊ばれてきた。宝心寺の羅漢図は中国宋時代の画家李竜民の様式を受け継ぐとされ、700年の時を経ても鮮やかな細密濃彩色が残り、大切に保管されている。

虚空蔵山宝心寺山門  
般若理趣経  
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【参考文献】
  『付知町史』 昭和49年  付知町
    『付知の文化財』 平成14年  付知町教育委員会
    『付知の遺跡探訪』 平成元年   三尾 正
    『岐阜新聞 悠遊ぎふ』   平成29年12月10日



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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