大威徳寺物語 「鎧掛の松」


 地元旧家に見事な枝振りの松であったという話と共に「鎧掛の松」の枝が保存されていました。兜を想像するような見事な松の頂上の出来具合、鎧を着た武者を連想してこんな伝承が伝わったのでしょうか。

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『定本飛騨の城』によると大威徳寺城は「築城並に寺院創建年代は不明であるが、飛騨唯一の一大城郭寺院址である。鎌倉時代源頼朝の願旨によって文覚上人がこの地に寺院を建立したと伝わる。城の縄張りも同時に行われたと見るべきであるが、築城様式の年代の考え方からすれば、誠によく整備がなされた縄張りをもち、いささか時代が下がるのではと疑うものの、現地に調査を行って見るところ、寺院のある所へ後から城を加えたとは考えられない。同時の創築であろう。天下人頼朝の力をもってすれば可能であろうと推定せざるを得ない。
 位置・・信飛濃三国にまたがる三国山(1611m)の支峰の西方中腹、山上に築かれた標高684m、大観して二つの地域からなり、大威徳寺本堂址のある山上に本丸があり、寺跡は寺域の高台地の北方寄り、中央に本堂址があって、東西17m、南北9m。全部の礎石を遺す。講堂・塔・湯殿の跡も礎石が残る。本堂の東方鎮守庵に、鎮守社・拝殿・鐘楼跡があり、本堂址より南へ直線142m下がって山門址。それより南へ急坂となり山麓へ下る道が参道(大手)となる。山門址の東に般若谷が流れ、参道下は数段の腰曲輪が谷川まで続く。
 城址・・本丸東西36.3m、南北63.6m。中央にくの字形の土居がある。林畑谷に臨む西方は数段(4-〜5)の腰曲輪を設け洗濯平という。それより南進して長さ凡そ36.4mの空堀を距てて二段に構えた腰曲輪を経て本丸へ入る。本丸の下南に二段の平地があって(二・三の丸に当たる)面積凡そ3300u。西南は急傾斜をなし、御厩野の村落および舞台峠を眺望すれば絶景である。東般若谷、南林畑谷の二川はともに城址・寺院址の台地を取巻いて合流して竹原川にそそぎ外堀の役目をしている。
 また、西観音平に頼朝鎧掛の松があったが、戦争中松根油の原料として切り倒されて今はない。」

なお、県教委の『城館跡調査報告書』では類似遺構とされ、「現在残っている遺構は全て寺院としての遺構と考えてよいであろう」と断じている。

 

「鎧かけ松」後日譚

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平成30年春、京都のある骨董屋さんからこんなカタログが届きました。
名古屋の吉田紹清師匠が「鎧かけ松」の幹を求められてこの水指を創られたそうです。
箱書きには「頼朝公鎧掛松水指 銘洗心」と書いてあります。奇縁を感じました。

【参考文献】
  『飛騨の城』  森本一雄   郷土出版社   昭和62年
    『岐阜県中世城館跡総合調査報告書第4集』 県教委 2005年



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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