高札「元木・枝葉・草芝刈取べからず」
戸田采女正


  大垣戸田家初代藩主戸田氏鉄(うじかね)は天正四年(1576)三河国二連木城内で生まれ、天正十七年徳川家康の近習となり、文禄四年従五位下采女正に任ぜられました。寛永十二年(1635)大垣入城以来、その治世は慶安四年(1651)嫡子氏信に譲るまで前後17年に及び、治山治水と新田開発に力を注ぎました。大垣地方は木曽・長良・揖斐の三大河川によって肥沃な土地が形成され、美濃の穀倉地帯と言われる反面、常に洪水による被害から逃れることは出来ませんでした。そのため、氏鉄は治山治水の重要なことに着目して、根尾の山林や多芸山の藩林に郷目付、山横目など役人を配して乱伐を禁止しました。こういった施策は代々受け継がれていったものと思われます。
 
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    此御年貢林におゐて
    元木ハ不及申枝葉
    草芝たりというとも
    猥刈り取へからず若於
    相背ハ可而る僉議者也
         戸田采女正
   二月日     御預所

 
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   池田郡
   粕河原野新田

 「池田郡 粕河原野新田」は現在の揖斐郡池田町粕ヶ原です。粕川は揖斐川の支流で暴れ川でした。肥沃な粕河原は近隣7ヶ村の入り会い秣場でしたが、開発されて「加須河原野新田」となり、延享二年(1745)新田検地を受けて新田村となりました。入会各村では開発中止を申し入れてきましたが藩に押さえられ、また用水問題でも争いが続きました。開発後、幕府領となるべきところを大垣藩預かりとなり、「御預所」は各所に増えて七万石までになったと云われます。
 この高札は「粕河原野新田」がお目見えする延享二年以降、六代藩主戸田氏英の時代と云うことになります。氏英は寛保三年(1743)采女正に任ぜられております。 
 明治五年(1872)の村明細帳によれば、高1127石、家数61,人数231となっております。
 
【参考文献】
  『岐阜県の地名』    1989年    平凡社
    『十万石太平記 上下』 昭和60年    大垣市文化財保護協会



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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