大威徳寺物語  大 蔵 寺 秘 話


 大威徳寺の末寺物語も終わりに近づいた。宮地に福成寺があり、乗政慈雲院も末寺だと言う。しかし、何処も一頁の記事を書くほどの資料は残されていない。宮地には「仁王門前」という地名が残り、巴文軒丸瓦が出土していて鎌倉さんが保管してみえる。福成寺跡と特定されているわけではないが、ここには瓦葺き建物があったのであろう。
「旭光山大蔵寺」は佐見郷吉田村にあった。室町初期白川筋に勢力を伸ばした安江左衛門尉正昭の息正時は佐見吉田に居を構え、その息基政は白川・佐見筋36郷の総鎮守である大山白山権現の社殿を再興したというから、「院・大居士」として祀られた大蔵寺にも何らかの影響を及ぼしたに違いない。慶長元年(1596)開基したのは「逸岳慶俊和尚」という。大威徳寺の衰退とともにその後の消息は分からないと言われるが、近世に入り遠山藩領となって常楽寺・ 蟠龍寺と共に禅宗臨済派天竜山雲林寺の末寺となった。
 高山「明林山神通寺」に飛騨でもっとも優れた作品の一つと云われる「聖徳太子像」が祀られていて、「伝大威徳寺蔵」となっている。『尊像縁起』によると、「当山安置の聖徳太子像はその初め山城國梶尾寺にましましし後、当國飛騨益田郡竹原村鳳慈尾山大威徳寺に奉安し奉りたる善縁深き尊像なり。抑も此の大威徳寺は鎌倉将軍源頼朝公の建立にして文覚上人を招請して開山となし、堂塔伽藍輪燈の美を競い峰を越え谷を渡りて東坊、多門院、南坊、竹林坊、西坊、吉祥院、北坊、宝光坊、池坊、満月坊及び福成寺等の塔頭十二坊在り数十の住侶日夜諷誦梵唄(ぼんばい)の声絶えずして足利幕府の中期に及びたるも其の後州内兵乱久しく漸次荒廃に及べり。此の難を免れむ為にこの尊像を秘に奉遷して付近の天領地たる佐美國大蔵寺に安置し奉る。而るにこの大蔵寺も烈しき時潮に抗し難く日々衰微の道を辿るに至れり。時恰も飛騨の商賈(しょうこ)一人あって、偶々此の地を徘徊し大蔵寺を尋ねたるあり、時に荒廃せし堂内に此の尊き太子ののお姿を拝し奉りて敬心忽ち深くして且つは此の奇縁を喜び生國の庶民に一度拝礼せしめんとの志あり。即ち大蔵寺の住侶たる老尼に其の意を告ぐるに又賛ずる所あり。商賈直ちに此の尊像を奉じて飛騨に帰国して後再び大蔵寺を尋ねて謝意を告げんとせしに即ち祝融(しゅくゆう)の大蔵寺を襲いて堂宇悉く灰燼に帰せしと謂う。」
「祝融」とは火の神、転じて火災のことである。
 『白川町誌』によると庄屋を務めた田口家に次のような古文書が残っている。
「乍恐以書付御届奉申上候 当御支配所加茂郡佐見郷吉田村大蔵寺、一昨十一日夜亥の刻頃出火仕り候。右は同十一日朝囲炉裏灰取り置き候処、右灰小屋より出火、本堂、居宅、雪隠、木小屋共家数都合四軒焼失仕り候処、不調法恐れ入り奉り候。右住持儀は別宅に相慎み罷り在り候。之に依り此の段村役人御届け申し上げ候以上。 文政五午年二月十三日(1822) 右吉田村兼帯百姓代 小野村 直八 右同断兼帯年寄 寺前村 良助 右同断兼帯庄屋 寺前村 正平  下川辺 御役所」
 寺跡には「佐見文化財保存記念館」が建ち、多くの仏像や「逸岳慶俊和尚」の木像、大般若経六百巻などを護持してみえる。
【参考文献】
『尊像縁起』    神通寺蔵
『東白川村誌』   東白川村誌編纂委員会 昭和57年
『白川町誌』    白川町誌編纂委員会  昭和43年
『ふるさとの歴史』 佐見文化財保存記念館
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巴文軒丸瓦 宮地相生座跡地付近にて出土
開山逸岳慶俊和尚   聖徳太子像(神通寺 蔵)
大般若経六百巻の一部   佐見文化財保存記念館   「旭光山大蔵寺」
の石碑



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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