下呂大石物語


 「下呂石」なんて小っちぇえもんでないんやぜな。こっちは「下呂大石」の話なんやさな。大石って云うても大河ドラマの大石勘九郎ではないんやさな。 間違いのう、一軒の家くらいはあるんでないかしらんと云う大石のお話。
 下呂町御厩野の奥座敷、通称一ノ谷の竹原川左岸にでぇ〜っけえ山石が2個もデーンと鎮座しておいでるんやさな。岩肌の風情と言い、苔むしたとこからいろんな木が生えた景色と言い、萬年亀の甲羅みたいになっとってぃな、そりゃぁもう絶景かな!絶景かな! そやで、庭石に持って帰りたいんやけんど、でか過ぎてまっておうじょうこくぜな。もっとも庭石にした日にゃぁ家が見えんようになってまってだちかんけどなぁあ。

 河村富郎サ[92歳]が親父サから聞いた話やといな「濃尾地震」ん時に対岸上方から落ちて来て川ぁ越え反対側に転がって座ったってこっちゃそうやぜな。 この地震は余震が酷うて竹薮で寝たって云う話も伝わっとるくらいやでぃな、この辺でもひどかったんやろなぁ。50mくらい離れて2個あるんやけどひょっとすると1個は、あの「天正大地震」のときかも?!
 あんまりこの頃地震が多いもんやで、昔話を思い出したんやけんど、ほんと怖いのは、地震、雷、火事、オカミ! アレ? 何か間違えたかな? ここんとこ オヤジ の権威も大石と共に地に落ちた!と云う オチ でおしまい。



[ 飛騨弁 表現 : by MUW ]


「濃尾地震」 1891年、明治24年10月28日、岐阜、愛知両県を中心として起こった大地震。マグニチュード8.0激震地域は濃尾平野一帯から福井県に及び、死者7,200余人、負傷者17,000余人、全壊家屋14万余。また、根尾谷 (岐阜県根尾村付近)を通る大断層を生じた。
「広辞苑」

「天正大地震」

1585年、天正13年11月29日、飛州大地震とも、尾勢大地震とも云われ広汎な地域に大被害をもたらした。マグニチュード8.1と推定され、阿寺断層上にある大威徳寺は壊滅的打撃を受け、白川帰雲城城主内ヶ島氏、城下町の人家約三百戸の男女数百人、馬もろとも一瞬にして一人も残らず埋没した悲劇で知られる。
『天正大地震誌』飯田汲事 著
 
処が、城主氏理(うじさと)の弟氏親(うじちか)はたまたま白川郷の母の里である「尾呂」の「市村大膳」宅にいたので命拾いをした。以後、子孫は「市村」姓を名のり、飛騨国主金森氏に仕えて地役人となった。三代「成興(せいこう)」は東軍流の剣術免許をもち、「山岡鉄舟」の師を務めた事もあった。続いて「成亮(せいりょう)」は「鳳頂(ほうこ)」と号して画の大家であった。次いで「成章(せいしょう)」の弟「成言(せいげん)」は旧南飛街道「福来口御番所」(益田郡金山町文化財として建造物が残って居る)の役人として着任する。御番所廃止後も二代「宣言」下原村長、三代「成美」と定住した。萩原、戸谷家から嫁した「成美」のつれあい「千代」は、私(筆者)の大叔母でした。
「金山郷土館長 資料による」



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

inserted by FC2 system