高山城絵図と高山町絵図
箔 道賢


 「高山藩俯瞰図 二幅」と記した桐箱に収まった「高山城絵図」と「高山町絵図」があります。『高山の古地図』を参考にして記述を進めますと、飛騨に流布する高山城絵図は、寛文3年(1663)に石垣修理のため幕府へ提出した図の写しが多いと云われております。多少、手が抜いてあるところもあるようですが大体は忠実に写してあります。
左下の書き込みには「寛文三年卯四月廿二日 金森立軒在判」(金森家四代頼直)とあって、幕府老中稲葉美濃守に提出した絵図で、付箋の付け方まで一致しております。
「飛州御城ヅ 箔 道賢写」という署名がありますが、人名事典などを探しても時代、経歴共に不明です。
 元禄5年(1692)金森家が出羽上ノ山に転封されると飛騨は天領となり、高山城は加賀前田氏によって管理され、やがて元禄8年(1695)破却の運命を迎えました。
 高山市郷土館が所蔵する城絵図には「金山組 中谷周右衛門」とあって「金森家領地朱印状」に金山領の記載があるようです。
     (絵図の寸法は 52センチ×74センチ)
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 「高山町絵図」は『高山の古地図』所載・高山屋貝家に伝わるものと大体同じで、北の方角に「千光寺」中程に「御城」「金森左京殿 蔵」などの書き込み方は似ております。赤く塗ってあるところは侍屋敷と寺屋敷で、丁寧に名前が書き込んであり、町屋は灰色で塗りつぶしてあります。左側ひときわ大きな屋敷が「金森左京殿」中程に「金森玄蕃殿」「金森伝八殿下屋敷」など、さすがに一族には「殿」が付けてあり、「千石金森将監」「六百石森四良エ門」「二百五十石西脇伊左エ門」など石高が書き込まれていて、金森時代後期の写しであると云われております。
     (絵図の寸法は 61センチ×76センチ)
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【参考文献】
  『高山の古地図 城下町高山の変遷』    平成4年  高山市郷土館
『岐阜県中世城館跡総合調査報告書第4集』 2005年 県歴史資料保存協会
『定本飛騨の城』             昭和62年 森本一雄

『飛騨の城』に「絵図に付けた文書」の読みが次のように載っております。

朱引のつく所。石垣破損仕候、石垣高サ三間之所東西弐拾間半
高サ二間の所南北五軒都合弐拾五間半、去年寅五月朔日の地震
小破仕候上ニ又当年卯二月八日九日両日の大雨ニ大破仕候、一ヶ所
朱引仕候処ニ石垣去年寅五月朔日の地震小破仕候、石垣高サ四間事ニ
御座候此所ハ石垣崩不申候得ハ朱引仕候所東西八間程張出申候。
右朱引仕候所の石垣両所破損仕候間先規修覆仕度奉願候。
                            以上
     寛文三年卯四月廿二日
                      金森立軒在判



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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