飛騨の事件簿 「三下り半 離縁状」


 「弘化三年 新助から於登茂」に出された離縁状があります。理由は「我等不埒之儀」となっております。『三下り半 江戸の離婚と女性たち』にはいろいろな例が載っておりますが、「我等勝手ニ付」という理由が多いようです。「然上ハ何方江片付候共 少構無御座候」となっていて、離婚された女性側から云えば一種の免罪符で、再婚できる証明書的な存在でもあったようです。
 多くの歌手に歌い継がれてきており、誰もが一度は口ずさんだことがある昭和10年代ころからの大ヒット曲「妻恋道中」は「好いた女房に 三下り半を投げて長脇差(ながどす) 永の旅怨むまいぞえ 俺等のことはまたの浮世で 逢うまでは」これも「我ら勝手に付き」の例でしょうか。

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御前様御事我等不埒之儀茂有之候ヘ共
此度縁切リ致候 然上ハ何方江御縁組
与成候共 私ニおいてハ少し茂差構
無御座候仍而如件
    弘化三午年十一月二十五日
                 新助 拇印
於登茂様  

 離縁状の例文があります。昔は書ける人が限られていたので、宗門送状などによく見られるように名主とかの家にはこういった例文が用意してあったようです。
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『三下り半』に載って居る離婚理由をいくつか例示して見ましよう。
「深厚宿縁浅薄之事不有私 後日雖他え嫁」という幕府公認の縁切寺上野国満徳寺離縁状。「私妻事 不相応ニ付 此度致離縁」「其元望ニ付 今般離縁致候」「両人相互ニ相談之上離別相成候」「気不合候ニ付 離縁致候」「其許義 家内不和合ニ付 此度離別」「何ニテモ申分無之候得共 拙者気ニ入不申」などなど・・・
そしてこの離縁状を二通、三通と所持していた猛者もいた話が載って居ります。また、「わたくしにわ すこしも志うしんこざなく候」と女性側から出された離縁状も稀にはあるそうです。多くの場合、名主または仲人等をあいだに入れて、再婚するであろう妻への配慮をにじませながらも、夫権優位の書き方がみられます。

【参考文献】
  『三下り半 江戸の離婚と女性たち』   高木侃  1988年 平凡社



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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