史 跡 大 威 徳 寺 その後


 下呂町御厩野の史跡大威徳寺の調査の必要性について拙文を載せていただいたのが平成11年10月号でした。11月号で星野直哉氏の大威徳明王に関する詳細な論文が掲載されたのは記憶に新しい処と思います。11月には地元地権者を中心に史学愛好者による「大威徳寺史跡保存会」を立ち上げまして史跡の整備と発掘調査の重要性をアピールして参りました。
 平成14年3月下呂町は町長岡前氏の大英断により史跡大威徳寺の発掘調査の為専門の学芸員設置を予算化され、いよいよ調査が本格的に始まることが決まりました。地元にとりまして永年の夢でありました大威徳寺の全容解明に向けての第一歩を踏み出すことが出来たわけであります。思い起こしますに、この史跡を乱開発から守ってこられた地権者の方々、前期の「飛騨春秋」あるいは「益田新聞」に盛んに史跡を紹介された渡辺真砂路氏、機会あるたびに講演と案内を精力的にこなされ、「史碑」を建てられた今井精一氏、その他先人たちのたゆまぬ努力が実を結んで今日を迎えたのであります。
 4月、堀 正人学芸員が着任されました。堀氏は関西大学史学地理学科卒で昭和60年から県高校教諭として奉職され、岐阜市教委、県文化財保護センターなどで9年の発掘経験を積まれたベテランです。着任以来、史跡調査と県教委折衝を精力的に続けられて、調査指導委員会の立ち上げに努力しておられます。今のところ、三重大学名誉教授八賀 晋氏、岐阜大学助教授早川万年氏、そして国立歴史民俗博物館助教授小野正敏氏の就任の快諾が得られ、すでに何度目かの現地調査に入っておられます。
 大威徳寺について神奈川大学教授網野善彦氏は「国境(くにざかい)の聖地」という言葉を使われましたが、小野助教授は 静岡の大知波峠廃寺等に見られるような「国境の関寺(せきでら)」ではないだろうか?と問題提起してみえます。最近になって全国的に関寺の調査研究が進んでいるとも言われました。
 先頃、史跡保存会では恒例の境内地の草刈りと除伐を実施しましたが、伝本堂跡地の西側に多くの礎石と段落ちにつながる石段が新たに見つかり西側への出入り口が確認出来ました。また従来、池跡といわれていた地点より下段に数倍の池跡を確認出来ました。伝本堂跡地の東側には長命の泉から水を引き、池も3段に造られた眺めの佳い庭園があって、その向こうに三重塔や鐘楼が建つ、まさに一幅の絵画を思わせる風景が想像できます。
 このほど開かれた地元説明会に於ける堀学芸員の話では、寺院の範囲確認と寺院に関わる遺構、遺物の確認のため平成15年度から3年位掛けて、2乃至3bのトレンチ調査、既知の遺構についてはグリッドによる調査を実施する。今年度はその準備段階としての調査と指導委員会の指導を受けての方針を決定して行きたいとのことでありました。
 いよいよ、本格的な調査が開始されるわけですが、文化庁、県当局の御指導御協力のもと、下呂町、地元保存会一体となって「大威徳寺」成立の謎を解くと共に、史跡の調査、保存、そして公開へと進んで行くことを期待しております。


飛騨春秋2002年9月号所載

 

平成29年秋台風後始末

 平成29年秋の台風の余波で史跡境内の檜・杉の大木十数本が根こそぎひっくり返されました。
 この辺りでは「檜おろし」と云って、北の白草山・鞍掛峠の方角から吹き下ろす風がしばしば倒木被害をもたらしてきました。このほど、県当局・市教委・地主・関係者の皆様のご協力によってきれいに片付けることができ、砂利道が本堂近くまで入って見学しやすくなりました。案内看板も設置され、本堂址の標柱も新しくなりました。史跡の詳細、ご案内などについては下呂市教育委員会までお問い合わせ下さい。

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