恵那郡加子母村とは『濃陽志略』によると「尾州府下へ29里。若し兼山路を経れば24里。苗木城へ7里。東は山を以て信州に至る界となし、西北は山を以て飛州に至る界となす。東南は付知に至り、南は越原に至る。」とあるように恵那郡の最北端の村でした。
江戸時代はじめから尾張藩領となり、付知村、川上村、加子母村の三箇村代官が置かれたがのちには、太田代官所の支配下となります。村方の支配は庄屋、組頭、百姓代の村方三役と呼ばれる人たちに任せられ、庄屋では、享保15年(1730)から山守役人を務めた内木一族をはじめ、伊藤家、田口家、そして天保頃から安江家の名前が見られるようになります。組頭は与頭とも書き、村内でも有力な高持ちの本百姓で、12人の組頭がいました。加子母村には「村差出明細帳」が無く戸口の動態ははっきりしませんが、天明3年(1783)には450軒2199人(岐阜県史)と云われております。
一村一寺の万燈山法禅寺は寛文3年(1663)に白川町和泉の曹洞宗大龍山洞雲寺の善中春良和尚・清巌和尚によって、昔大威徳寺の末寺があったと言われる極楽寺跡の現在地に創建されました。享保年中の火災で焼失、元文年中の再建、開山堂などの増改築等を経て今日の姿が整いました。境内にある薬申閣に祀られる薬師如来(像高112センチ)は平安時代の作と鑑定されていますが、この大きさで十二神将を従えて祀られるお堂は大寺院でなければ考えられず、「鳳慈尾山大威徳寺に祀られていたのではないだろうか」という大胆な推測もあります。しかしながらそう言った伝承も無く、確たる証拠は何もありません。今後の研究課題です。