嘉永七年 「往来一札」
尾州御領加子母村


 昔は恵那郡加子母村、現在の中津川市加子母から出た嘉永七寅年(1854)の「往来一札」です。「尾州御領」とうたってあるだけで、肩で風切り、堂々と御関所や御番所を通り抜けたのではないでしょうか。当年24歳の男盛り、万弥さんの颯爽たる旅姿が目に浮かぶようです。
※画像をクリックすると拡大表示します

     往 来 一 札
        尾州御領
         濃州恵那郡加子母村
               万 弥
             当寅弐拾四才
右男壱人宗旨ハ代々禅宗当村法禅寺
旦家に相紛無御座候然ル處今般志願ニ付

金毘羅大権現江参詣ニ罷出申候海陸国々

御関所御番所無相違御通可被下候勿論

御公儀御法度宗門筋目之者ニ而ハ無御座候間
若行暮候歟又ハ病死等仕候節ハ其国々宿村之
御作法ニ御取計可被下候其砌国元江御届ニ
不及幸便有之候ハバ御知らせ可被下候
為念往来一札依而如件
 嘉永七寅年正月
        右村庄屋
          安江新右衛門 印
        同村組頭
            杢左衛門 印
 国々 御関所
    御番所
        宿村
        御役人衆中

 恵那郡加子母村とは『濃陽志略』によると「尾州府下へ29里。若し兼山路を経れば24里。苗木城へ7里。東は山を以て信州に至る界となし、西北は山を以て飛州に至る界となす。東南は付知に至り、南は越原に至る。」とあるように恵那郡の最北端の村でした。
  江戸時代はじめから尾張藩領となり、付知村、川上村、加子母村の三箇村代官が置かれたがのちには、太田代官所の支配下となります。村方の支配は庄屋、組頭、百姓代の村方三役と呼ばれる人たちに任せられ、庄屋では、享保15年(1730)から山守役人を務めた内木一族をはじめ、伊藤家、田口家、そして天保頃から安江家の名前が見られるようになります。組頭は与頭とも書き、村内でも有力な高持ちの本百姓で、12人の組頭がいました。加子母村には「村差出明細帳」が無く戸口の動態ははっきりしませんが、天明3年(1783)には450軒2199人(岐阜県史)と云われております。
  一村一寺の万燈山法禅寺は寛文3年(1663)に白川町和泉の曹洞宗大龍山洞雲寺の善中春良和尚・清巌和尚によって、昔大威徳寺の末寺があったと言われる極楽寺跡の現在地に創建されました。享保年中の火災で焼失、元文年中の再建、開山堂などの増改築等を経て今日の姿が整いました。境内にある薬申閣に祀られる薬師如来(像高112センチ)は平安時代の作と鑑定されていますが、この大きさで十二神将を従えて祀られるお堂は大寺院でなければ考えられず、「鳳慈尾山大威徳寺に祀られていたのではないだろうか」という大胆な推測もあります。しかしながらそう言った伝承も無く、確たる証拠は何もありません。今後の研究課題です。
【参考文献】
  『加子母村誌』        昭和47年 加子母村誌編集委員会
『加子母の歴史と伝承』    昭和58年 加子母村文化財保護委員会
『加子母の歴史と伝承・続編』 平成2年  加子母村文化財保護委員会



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

inserted by FC2 system