「木地師」の話 


 『加子母の歴史と伝承』によると「木地師の根源の村は、滋賀県の愛知郡東小椋村(現神崎郡永源寺町)で、その祖先は小野宮惟喬親王といわれ永源寺町には惟喬親王を祭る筒井八幡宮があって、全国の木地師はすべてこの神宮の氏子とされている。木地師の祖先は宮廷の奉仕に服した由緒によって、諸国往来の自由と、用材の自由伐採の特権を与えられ、代々子孫はこの綸旨に基いて、筒井八幡宮の発行する免許状、いわゆる木地札(特権付与の綸旨と諸国往来に関する関所手形)を持って全国の山から山へと移り住み、一般社会とは隔絶した集落生活を送って来た。明治以後山林の私有権の確立によって、木地師の山渡りは終止し、最後の土地に定住した。姓は全て小椋と大蔵、一部は小倉または大倉に限定されており、家紋は皇室と同じ十六花弁の菊の紋を用いている。明治初年には加子母村で17軒を数えた木地屋も今では大蔵家1軒を残すのみとなった。」
 また、『小川の文化と文化財』にはこんな話が載って居る。「小坂の鹿山の山奥に、下呂小川石で作られた墓石が建って居る。(色宮妙秋信女 元文3年)(1534)(危雲妙巒信女 元文5年)(1536)の二基で、木地屋の墓と言われている。山奥で椀や盆を作り、下呂の大林を通り、小川あたりまで売りに来たのであろう。その縁で小川石の墓石を建てたのであろうと。」
 下呂市御厩野にある巌谷山阿弥陀寺の古い過去帳に次のような記載がある。
 「妙西禅定尼  宝永7年8月8日 倉カケ長兵エ娘」(1710)    
 「元知禅定門  正徳1年11月5日 蔵カケ長兵エ」(1711)
 当時の竹原郷御厩野村では、大抵の家で小字名が肩書になっていて、大畑の茂平衛、南の惣左衛門、西田の六兵衛などと呼ばれていた。「蔵カケ」と小字名を肩書に使われた長兵エさんは御厩野村字鞍掛に娘と二人で住んでいたということになる。いまでは鞍掛と書く小字名は御厩野では一番山奥で、信濃国と美濃国に接し、国堺の峠を越えれば目の前に御嶽山が見えるところ、その三国山側が字鞍掛で竹原川の源流(飛騨川に合流)を挟んで字焼枯、字白草と向き合っている。三国山1611m、白草山1641mに挟まれた峠でも海抜1408mの高地である。在所からほぼ1000mも登っていて、雪の多い冬場などはとても生活できるようなところではない。思うに鞍掛に住んでいた「蔵カケの長兵エさん」は「木地師」ではなかっただろうか?春雪解けを待って山に入り、秋木の葉が落ちるころまで鞍掛で木地屋をやっていたのであろう。そして片道3〜4時間は掛かる竹原郷の在所まで椀や盆を売りに来て、食料品や生活用品を買い入れて帰られたのであろう。御厩野に木地屋が住んでいたという記録や伝承はなにも残っていないが、きっとそうに違いない。

御厩野の在所から見る鞍掛峠

阿弥陀寺の過去帳

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【参考文献】
  『加子母の歴史と伝承』   平成2年 加子母村教育委員会
    『小川の文化と文化財』 平成13年 小川の文化と文化財を考える会



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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