『飛騨人物事典』によると、大坪二市(1827〜1907)は文政十年国府村広瀬町村の生まれ、号は霊芝庵菊仙。「はさ方式」による稲の乾燥、茶と菜種の普及を勧めるなど篤農家であった。また蚕種事業にも力を入れて日本三大老農の一人と讃えられた。
『飛騨史料』には〔大坪二市記〕として時代を風刺する歌が載っている。
〈明治元年維新にて竹澤寛三郎入国、飛騨郡代新見内膳追われる〉
なげくべし 御恩になりし君なれば 新見(しんみ)にこたへ しぼる袖かな
殿の恩 報せんよしもあらばこそ かげふし拝み なげく斗りぞ
〈中橋詰を初め、国中の高札をはづしとる由、心よからず〉
世の中の ひっくり返る有さまは 掛けたる札も みな落にけり
何ことも 先の仕置きは水となり きく度毎に 肝をひやせり
〈郡上藩鈴木公より高山町在へ、三百俵の米下すへき御沙汰あれども、固辞〉
くれぐれの 御意でも米の手はくはず 喰違ふたる 計り事哉
茶菓子程 米をとらせて呑む気でも 郡上の番茶に うかされもせず
〈陣屋門前に「天朝御用所」の高札建つ、鈴木公彌いきとほり、槍の柄を切る〉
天朝の 御用所と有り高札を 見てヤリヤリと 思い切る哉
角竹の 窓へ雀のおとりこみ ただチウチウと 知らせてそゆく
竹澤の 支配をめでて雀さへ 百までおどる御代そ めでたき
〈鈴木公彌いきとほり、当国半分なりとも領せんと大垣に岩倉卿を訪ねる〉
天領の 大垣せんと飛たせし 鈴木したふて 竹澤もすぐ
岩倉の 重き御趣意にあわれさは 鈴もつぶれて 音もあからず
〈近頃郡中会所へ人々打ちより数日の評議かまびすし〉
郡中へ 出しゃばり杉て 大小の百姓にさへ しかられにけり
〈国中の高札美々敷認直し掛替あり〉
世の中は 実にあたらしく成りにけり 先ず制札を 見るに付けても
〈正月迄は新見殿、二月は竹澤殿、三月は梅村殿とうつり替わるも奇なる哉〉
君のなき 国かと計り嘆きしに 目を突くほどの 御殿様哉
〈梅村公古川舟津及び鉱山へ御巡見あり〉
今しばし 花は見ざれど中々に 四方に匂える 梅の徳かな
〈郡中会所の諸帳面など取り調べ〉
雑用は 高やまなりと押上げて 置きもならぬは 是も騒動
梅咲きて うつくしき世にきたなきは 宿場々々の 帳面の尻
〈兼て御達に相成居り八十歳以上の老人取り調べ上申あり〉
国中の 梅干面を調出し 梅村君の 御取次かな
〈都より御連枝様下向され、老若男女参集して市中にみてり、折から雨天なり〉
上人を 居ながら拝む有りかたさ ふる雨ならで ぬるる袖かな