史跡 大威徳寺 の 最新事情


 国道257号線を下呂から中津川に向かって15分ぐらい走った処、下呂町と加子母村の境、舞台峠に差し掛かる五叉路の右手に史跡入り口がある。車で5分も山道を登ると、米搗平、清水坂を経て広さ十町歩もあろうか,台地が開ける。開拓地であったので今でも牧草が作ってあったり、宴のあとか、荒れ果てた別荘分譲地になって居たり、ひっそりと鎌倉五輪石が建って居たりと、様々な顔を見せる処が、西観音平である。その東方、鬱蒼たる檜林の下に眠るのが、県史跡指定第67号鳳慈尾山大威徳寺跡である。

二王門の礎石
 昭和30年頃の宝篋印塔と五輪石
  背後は拝殿山
 礎石と伝承だけが残る謎の多い大威徳寺については、今まで多くの先生方が、いろいろ研究してこられた処であるが、近年新しい発見と専門家の調査研究により、別の視点が加えられようとしている。史跡の伝承は高山宗猷寺に残る古文書から、『益田郡誌』などで紹介されて居るように、「本堂丈間五間四方、地蔵堂、大黒堂、講堂、鎮守,拝殿、鐘楼堂,三重塔、二王堂,坊数十二坊を数える」と云う大伽藍である。現地を踏んで見るに、二王門の礎石から、140メ−トルある本堂の礎石までの、左手に広大な屋敷跡を思わせる何面かの平地、右手奥の方、「長命の泉」から湧き出る水をひいて、池をつくり、更にその庭園の向こうに、屋敷跡、鐘楼堂跡、三重塔跡、一段と小高い処に鎮守尾と続き、たしかに往時を偲ばせるものがある。

本堂の礎石
 

長命の泉
 幕末から明治時代にかけてこの地が開墾されて桑畑になったことがある。その時懸仏一面、茶臼破片三個が出土した。それから昭和30年代になって何世帯かが、西観音平に入植された。その中の一人、熊崎一郎氏が作業中に発見され、今回、奈良在住の仏教美術研究家星野直哉氏によって鑑定されたのが、焼けては居るが原型をとどめている鎌倉時代の懸仏聖観音菩薩立像であり、平安時代から鎌倉時代にかけて多く作られたと云われる懸仏聖観音菩薩坐像と共に、御厩野阿弥陀寺に祀られて居る。また、今井金一郎氏が陶器の破片十数点を持ってみえたのを、私が譲ってもらっていた。鎌倉時代とわかる古瀬戸黄釉牡丹文壺破片数個は、陶器好きの私の宝である。

聖観音菩薩立像
 

聖観音菩薩坐像
 平成9年8月、国立歴史民俗博物館助教授小野正敏氏が、偶々寄られて鑑定された処、更に、平安時代の灰釉陶器破片数個と、同じころ東濃で焼かれた籾殻痕のある山茶碗破片数個があるといわれた。古瀬戸破片は鎌倉時代末の物であり、下呂町教委が所有している三筋壺破片は少し時代が下がるとも云われた。この事は、NHKロ−カルニユ−スで放映され、神奈川大学教授網野善彦氏が、「国境の聖地」であると云う様なことをいわれたので、或いはご記憶の方もあるかと思う。平安時代に生活の痕跡があったと云うことになり、更に大威徳明王信仰が盛んであったのも平安時代である。とすると、大威徳寺も平安時代から何らかの寺がすでに建っていて、鎌倉時代になって更に整備され、形が整っていったと考えるのが自然ではないだろうか。

古瀬戸黄釉牡丹文壺 破片
 

灰釉陶器 破片
 『斐太後風土記』は「文覚が滝もないこの山中の池に現れた大竜を見て、弁財天を祀らで威徳王を安置せしは、いかなる縁であろうか、僅かなる寺領田一町一反歩,永二十貫文地ばかりの施入にて、どうやって生計をたてていたのであろうか、又、鎌倉時代に諸国の大名がこの辺土深山に郡参するはずがない、これらは長滝寺の僧の妄作である。」とまで決めつけて居る。文覚上人か永雅上人かも解らず、やはり伝説的な話には、無理があるのではないだろうか。
 また、『岐阜県史』(通史編中世)には、「天台、真言の系統に属する重要な寺院のほとんどは、古代すなわち平安時代に建立されており、中世に新しく作られた寺院は殆どない。しかしこの時代には天台、真言両系統の人達の一部が、この地方における山岳信仰の中心地に集まって、地方的に特殊な信仰形態をもった集団をつくりだしている。」との記述がある。
苔むした石垣だけが残る「西の坊」跡地。
明治初年迄「阿弥陀寺」が建って居たが他所へ移築された。
丁度、大威徳寺史跡を正面に見る位置にある。

 今回調査された星野直哉氏によると、大威徳明王信仰は、単独の大威徳明王尊を描いた絵画の請来や制作によって9世紀後半頃から成立、10世紀代から彫像の制作をみて盛んになったと考えられている。大威徳寺は諸堂宇の形式、聖観音菩薩像の尊容、そして長命の泉などから見て、天台宗比叡山の横川の流れを汲む僧が開いた日本有数の平安仏教寺院遺跡であるとの確信が得られ、大威徳明王を祀る類似した寺として、大分国東の伝乗院、(現在の真木大堂はその子院であった)和泉の大威徳寺,近江の石馬寺、そして長野の牛伏寺等があり、これらとの比較関連について調査研究をしているので、来春くらいには発表したいと言うことである。
 平成7年10月、下呂町の「ふるさと歴史記念館」に於いて町教育委員会主催で、今井精一氏,進藤重義氏のお骨折りにより、「大威徳寺展」が開催された。期間中二千人余の入館者を迎えることができ、いささかなりとも、その存在をアピ−ルする事が出来たと思う。これがきっかけで町教委に、史跡測量の調査費を盛って頂き、この春までに二次に渡る測量で全体図が把握できた。町当局は、関係地主の方々のご理解とご協力をお願いし、発掘に携わる専門職員を直接雇用されると共に、県教委文化課と連絡を取りながら長期の調査整備計画を立案し、更に国指定史跡に格上げされる様、専門家による特別委員会を発足させて積極的に取り組む姿勢を示すべきときであると思う。大威徳寺は寺院自体が廃絶しており、宗教的な制約もなく、歴史を明らかにできる可能性を秘めて居る。ただ遺跡の残り方がよいだけでなく、古代中世寺院のあり方そのものを明らかにできる条件が整っている実に貴重な遺跡であることを再認識されて、直ちに着手して頂きたいと思う。
 はるかなる古代中世へのロマンを求めて、一日も早く史跡に世間の耳目が集まるのを、この目で確かめたいものである。






鳳慈尾山大威徳寺関係伝世品および出土品リスト


1,仏像三躯
高山宗猷寺の観音堂に安置される、観世音菩薩、延命地蔵尊、そして薬師如来の三躯である。

観世音菩薩
 

延命地蔵菩薩
 

薬師如来


1,懸仏一面
聖観音菩薩坐像で平安時代から鎌倉時代に多く作られ、堂内の壁面に懸けたものという。二百年程前、農作業中に掘り出されたと云われている。(高 25cm)
(阿弥陀寺蔵)


1,懸仏一面
聖観音菩薩立像で、鋳型で作られ四角い台座にたつ、鎌倉時代の作といわれ、熊崎一郎氏によって昭和30年代に発見された。(高 11cm)
(阿弥陀寺蔵)


1,地蔵王菩薩
一木三体の地蔵王の内の一躯、天正13年大地震のおり、多聞坊慶俊が背負って避難し、三石にきて安置したと伝えられる。
(三石地蔵堂)

地蔵王菩薩
 

三石地蔵堂


1,茶臼破片三個
寺内の生活用具である。
(個人 蔵)

茶臼上部
径18cm 高11cm
   


1,大般若経一巻
裏打ち紙に「恵雲山多聞坊」と書かれている。
(個人 蔵)

恵雲山多門坊


1,大般若経六百巻
釈迦十六善神尊像一軸
古南京の神酒瓶子一対
神土邑(かんどむら) 邦好家 に伝えられるも現在不明。
(東白川村誌)


1,古瀬戸三筋壺破片
山茶碗、天目碗、破片数点。
(下呂町教委蔵)


1,灰釉陶器 破片   (平安時代)
  古瀬戸黄釉牡丹文壺破片   (鎌倉時代)
  行基焼茶碗破片 モミ高台   (奈良、平安時代)
(個人 蔵)


平成11年8月  改訂版



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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