「正徳キリシタン高札」 河内国讃良郡


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     覚

 きリ志たん宗門ハ累年御禁制たり
自然不審成もの有之ハ申出べし
御ほうびとして
 ばて連んの訴人    銀五百枚
 い流まんの訴人    銀三百枚
 立かへ里者の訴人   同 断
 同宿并宗門の訴人   銀百枚
右の通下さるべし たとい同宿宗門の内たりというとも
申出る品により銀五百枚下さるべし
かくし置他所よりあらはるゝにおゐては 其所の名主并五人組迄
一類共に可被行罪科者也
   正徳元年五月 日    奉 行
右堅可相守之者也
               飛 騨


 河内国讃良郡下八塚村に掲げれられていた「正徳キリシタン高札」(1711)です。
天和二年五月から正徳元年五月までに建てられた同種のものが各地に残されておりますが、文面に多少の違いがあります。奉行と記された江戸幕府のものはそのあとに地域を統治したものの名前がつきますが、通常は大名の名前(官職名)が書かれております。
「飛騨」とありますので「飛騨守」か?「蒲生飛騨」という名前も出てきますが特定できません。
  「ばてれん」とは伴天連=司祭
  「いるまん」とは伊留満=修道士
  「立ちかへり者」とはいったん仏教に改宗した者が再びキリシタンになった者
を云います。
  讃良郡(さららのこおり、ささらのこおり、ささらぐん)は、かつて河内国・堺県・大阪府にあった郡です。
和名類聚抄には「佐良良」という訓が記載されており、古くは「さらら」と読んだようです。持統天皇の名「鸕野讃良」の「讃良」は讃良郡に由来するものであり、「うののさらら」と読まれておりました。「さらら郡」には更占郡などの表記もあります。のちに「さら郡」という読みが現れ、近世以降はもっぱら「ささら郡」と読まれております。

 高札のサイズは    横巾97センチ×高さ(37センチ~41センチ)




 
 
           
   
 
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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