なおもう一つ、この絵図で注目すべきところは「棒杭」と記述があるところです。「弐本の檜」とともに「棒杭」が画かれております。この「棒杭」は国境の印でした。
『天明八年 飛騨国益田郡御厩野村差出明細帳』(1788)によると、
「一、当村より御国境濃州小郷村東之方高札より十五丁」
「一、御国境之印檜弐本有之候、壱本ハ枯木ニ而御座候」と記載があります。
『寛政十二申五月 飛騨国益田郡竹原郷御厩野村差出明細帳』(1800)も記述はほとんど同じです。
『飛騨下呂 史料T』に「旅人取締まりにつき濃飛国境杭掛合往復留」(岐阜県歴史資料館蔵)が載っており、「棒杭」には次のように書かれておりました。
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天
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十
四
癸
卯
年
月
建 |
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是
西
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飛
騨
国
郡
代
豊
田
藤
之
進
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配
所 |
飛
騨
国
益
田
郡
竹
原
郷
御
厩
野
村 |
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「飛州御郡代様より杭雛形卯四月八日写之」(1843)とあります。
時代は下がって「辰四月」(1868)加子母村庄屋伊藤与右衛門から太田御陣屋へ出された「乍恐再応奉願上候御事」には次のように書かれておりました。
「今般、飛騨国天朝御料被仰付候付、往来之旅人御取締之為、当村御厩野村御境ニ、御境杭御建被遊候」また「棒杭並御制札御建被遊候」と通行が厳しくなって来ました。現在の舞台峠付近には「山内入会場所等有之候」と言う事で「一同甚迷惑難渋筋可相成哉と、深ク心配仕候間 、何卒右御杭制札共、御取建之儀御差止相成候様、其御筋え御打合被成下候様仕度、只管奉願上候」と御憐考を以てお聞き届け頂くよう願い出ました。
棒杭には次のように書かれておりました。
「御制札」には次のように書かれておりました。