古絵図で見る高札場
「飛騨国御厩野村の高札場」


飛騨国益田郡御厩野村(現在の岐阜県下呂市御厩野)に残る古絵図に「口留御番所」と共に 「高札場」が画かれております。口留御番所から南北街道(中津川宿から下呂・湯之島村)を500bも下がった所で「右むらみち」と「左げろみち」とが分かれる。付近の民家にここにあったと思われる石の道標が残されています。このあたりが「高札畑」と呼ばれて、絵図にあるように高石垣のなかなか立派な「高札場」が作られていたようで、「天明」の記録では、ここに3枚の高札が掲げられていました。幕末「慶応」の5枚の高札は全部掲げられていたのでしょうか?「脱国札」とよばれる「五番高札」が地元旧家に残っております。「口留御番所」の周囲、山に至るまで柵が画かれていて当時の状況が偲ばれるのも、この古絵図の面白いところです。
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 なおもう一つ、この絵図で注目すべきところは「棒杭」と記述があるところです。「弐本の檜」とともに「棒杭」が画かれております。この「棒杭」は国境の印でした。
『天明八年 飛騨国益田郡御厩野村差出明細帳』(1788)によると、
    「一、当村より御国境濃州小郷村東之方高札より十五丁」
    「一、御国境之印檜弐本有之候、壱本ハ枯木ニ而御座候」と記載があります。
『寛政十二申五月 飛騨国益田郡竹原郷御厩野村差出明細帳』(1800)も記述はほとんど同じです。
『飛騨下呂 史料T』に「旅人取締まりにつき濃飛国境杭掛合往復留」(岐阜県歴史資料館蔵)が載っており、「棒杭」には次のように書かれておりました。
 







 



西

























 

「飛州御郡代様より杭雛形卯四月八日写之」(1843)とあります。

 時代は下がって「辰四月」(1868)加子母村庄屋伊藤与右衛門から太田御陣屋へ出された「乍恐再応奉願上候御事」には次のように書かれておりました。
「今般、飛騨国天朝御料被仰付候付、往来之旅人御取締之為、当村御厩野村御境ニ、御境杭御建被遊候」また「棒杭並御制札御建被遊候」と通行が厳しくなって来ました。現在の舞台峠付近には「山内入会場所等有之候」と言う事で「一同甚迷惑難渋筋可相成哉と、深ク心配仕候間 、何卒右御杭制札共、御取建之儀御差止相成候様、其御筋え御打合被成下候様仕度、只管奉願上候」と御憐考を以てお聞き届け頂くよう願い出ました。

 棒杭には次のように書かれておりました。
 








 

 「御制札」には次のように書かれておりました。
御用之外他国より帯刀之もの一切立入申間敷、
若於相背は召捕可申もの也
             辰三月  梅村速水
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 弐本の檜も、棒杭も、そして昔の道も残っておりません。こういった古絵図がその存在を知る手がかりとなります。「石の道標」も「棒杭」も『南北街道』には記載されておりません。
【参考文献】
  『飛騨下呂 史料T』       昭和58年 下呂町史編集委員会
『歴史の道調査報告書 南北街道』 昭和58年 岐阜県教育委員会
『寛政十二申五月 飛騨国益田郡竹原郷御厩野村差出明細帳』 岐阜県立図書館
【参考資料】
  石の道標は高さ約40センチほどです
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