飛騨の事件簿 「為後代江傳ルニ相印置」


       為後代江傳ルニ相印置

一 

天保十三年寅年四月九日八ツ時せつハ
中五日まいは九日八ツ時ニ西の方より大あられふり
一時の内畑のうねの中ニいばいたまり諸色大いたみ
大麦小麦をれくたけ拾本ニ壱本もたてをらず
なゑものるいなくなりなゑ田王かく扁ついたまず
幸木はをちからきなるくらい同十日のひる
までかけてあられあ竹原の内にても宮地
乗政は麦幸ニさわらず野尻小万場かみな志
麦幸ニさ王らず麻王をれくたけ壱本も
はのあるのなし山もとこによて木のはなし
御厩野村川奥ハ麦幸ニさ王らず川下
花田酒やかぎり下海道筋大いたみ田畑の
くろくさちぎれて志まう近在も加子母二渡り蛇野尾田口
久の川和佐大いたみ此年ハ春よりゆうだちけ
をうくあるぬくと幾年あられのふたのち十日も
さむしおてんき王よし右相印申置候
                以上
               竹原郷野尻村
天保十三年寅四月日          井ノ上 傳七郎

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 ちょっと解釈できないところもありますが、大略次のような文になると思われます。
 なお、加子母二渡は現在の中津川市加子母二渡地区、蛇之尾、田口、久野川は下呂市上原、和佐は下呂市中原と広範囲に被害をもたらしたようです。
「後代へ傳る為に相印置 天保十三年寅(1842)四月九日八つ時、時節は中五日前は九日八ツ時に、西の方より大霰降り、一時の内畑の畝の中にいっぱいたまり、諸色大いたみ、大麦小麦折れくだけ、十本に一本も立っておらず。なえものるい、なくなり、苗田はかくべついたまず幸い。木葉は落ち、枯れ木なるくらい、同十日のひるまでかけて、霰は竹原の内にても宮地、乗政は麦、幸いにさわらず。野尻、小万場、かみなし、幸いにさわらず。麻は折れ砕け一本も葉のあるものなし。山もところによって木の葉なし。御厩野村川奥は麦幸いにさわらず。川下花田酒やかぎり、下海道筋大いたみ、田畑のくろ、草ちぎれてしまう。近在も加子母二渡、蛇之尾、田口、久野川、和佐、大いたみ、この年は春より夕立け多くある、ぬくとき(暖かき)年。霰の降ったのち十日も寒し、おてんきはよし。右相印置候  以上」




 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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