大威徳寺物語  宝光坊は残った



 文献に残る大威徳寺関連の記述の中から、「威徳寺合戦」に耐えて焼け残った宝光坊について考えてみたい。
 『飛騨下呂』には「弘治二年(1556)遠山氏が侵入し、三木氏が大威徳寺でこれを撃退したという伝承があるが、あるいはこれは元亀三年(1572)武田信玄西上の際のことであったかもしれない」と記されている。
 『飛騨編年史要』に威徳寺が初見されるのは「応永五年(1398)十二月十九日。飛騨竹原郷威徳寺の僧、所々を勧進して大般若経を購ふ、今は美濃加茂郡東白川村に傳来す」であるが、更に下って「永禄三年(1560)九月二十六日。美濃苗木高森城主遠山左近(道号正廉)先是兵を飛騨竹原口へ出し、良頼の将三木三郎左衛門尉と威徳寺に戦ひ同寺を焼く、偶ま左近矢に中りて退き尋て創を病みて卒し同家断絶す」とあって威徳寺合戦の年代がはっきりしていない。
 『苗木物語』には「天文永禄の頃、御城主遠山左近介様或時、飛州の太守三木久庵弟萩原城主三木次郎右衛門と飛州威徳寺にて御取合い、即時に威徳寺を御攻め破り被成候へば、彼の残党少々残るによって威徳寺に火をかけて焼き払い、月毛の馬に召し御下知遊ばし候所へ流れ矢壱つ来たり少し御手負い被成候由、彼の傷ついに癒えず苗木にて御他界被遊候よし」とあり、『苗木藩政史研究』には威徳寺合戦が元亀元年(1570)の秋、遠山左近介直廉が没したのが元亀三年(1572)五月十七日で法名は「雲岳院殿前駿州太守雲岳宗興大禅定門」と記されている。苗木物語はこれから百年くらい後に書かれたと言われているが、威徳寺合戦の具体的な描写や、苗木城主の没年等については信頼が置ける記述である。 
『飛騨編年史要』には「天正七年(1579)四月某日。飛州大威徳寺の宝光坊良玄、阿弥陀経を書写す此経後に中津原万福寺に伝来」とある。「火をかけて焼き払った」威徳寺に宝光坊は残っていたのである。どこに残っていたのだろうか?
 二年目を迎えた大威徳寺の発掘作業では、寺域内でいくつかの屋敷跡が確認されている。その中には坊院跡ではないかと想像される場所があり、今後発掘作業が進めば焼けた灰の層などが出てはっきりしてくると思われるが、宝光坊はこの寺域内には無かったのではないかと考えている。昭和二十年代後半からこの地に入植された今井金一郎氏の開拓地は伝本堂跡から北に500bの地点である。更に北に隣接して熊崎一郎氏の開拓地があった。今井氏から譲って頂いた「灰釉陶器、山茶碗、古瀬戸壷」等の破片はこの地に生活の痕跡が有ったことを示している。御厩野阿弥陀寺に保管されている懸け仏「聖観音菩薩立像」は熊崎一郎氏の土地から見つかっている。
 宝光坊は鬱蒼と茂る樹木に隔てられて500b北の地点に有ったのではないだろうか、だから兵火を免れたのではないだろうか、と私は考えている。
【参考文献】
『飛騨下呂』    下呂町史編集委員会 平成2年
『飛騨編年史要』  岡村利平      大正10年 
『苗木物語』    苗木遠山家蔵
『苗木藩政史研究』 後藤時男      昭和57年
聖観音菩薩立像・・鎌倉時代
古瀬戸瓶子破片・・鎌倉時代   灰釉陶器段皿破片
・・平安時代
  山茶碗破片・・東濃産
・・籾殻痕が残る
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