幕府勘定吟味役川路三左衛門聖膜(トシアキラ)について



 川路三左衛門聖謨(号敬斎)の書があります。
 
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 日本史籍協会編『川路聖謨文書』による経歴は概略次のようになります。
 「享保元辛酉年(1801)、豊後国日田代官属吏内藤家の長男として生まれる。文化五年八歳のとき父に伴われ江戸に移り、同九年十二歳のとき、小普請組川路家の養子となり、同十年元服、小普請組に入る。文政六年二十三歳のとき、評定所留役に登りお目見え以上となる。天保九年(1838)三月、江戸城西丸焼失、聖謨再築御用掛となり用材伐木監督として濃美に出張、木曽山を巡視、賄賂不正を厳制、七月十一日帰任した。藤田東湖、渡邊崋山、佐藤一斎、佐久間象山、伊能忠敬、間宮林蔵らと懇交して学益々進み識愈々博す。聖謨資質厳明、一面古武士の風格あり、また文学を修め、『語言概覧』『遊芸園雑筆』『島根の言の葉』『神武御陵考』などを著す。幕府にあっては佐渡奉行、普請奉行、奈良奉行、大坂町奉行、そして嘉永年間には勘定奉行の要職に就く。明治元年、官軍東に進み、江戸の落城目睫に迫る、三月十五日聖謨家人を遠のけ悠揚自ら刃に伏す。年六十八。大正元年贈従四位の天恩に浴す。」

 さて、話は天保九戊戌年(1838)聖謨38歳のときです。
 「ふるさとの ちかしと聞くも涙かな 母やいかにと おもひわひつヽ」の和歌でも知られるように彼は大変な親孝行でした。『濃役紀行』『岐岨路の日記』『長崎日記』『京都日記』など膨大な日記の多くは父母の老懐を慰めんがためにその任地から江戸に脚送したものだと言われます。そしてそれが時代世相を活写する貴重な資料となっております。
 『濃役紀行』の内、中津川から裏木曽・加子母に関係するところを要約すると・・・
天保九年江戸城西ノ丸が焼失し、その再建工事が実施されることになり、尾張藩から献木される備蓄材八万本の檜のほかに、不足する大径木は木曽山中に求められることになった。この伐出・選木の総責任者となったのが時の幕府勘定吟味役川路三左衛門聖謨である。

4月22日  晴 (新暦5月15日)江戸を出立 川崎宿の本陣に夕七っ時に到着 前記の和歌はこの時に詠まれた。
閏4月24日 雨 (新暦6月16日)中津川に至りて止宿
「旅衣 しめりかちなる五月雨に かはこへかねて ふりくらす日は」
4月29日 雨 中津川に六日滞留 盛んに和歌をつくる しりなき矢に文通をくるくる巻き付け、岩の上より百間に近き川向の村とたかひに矢文取遣わした    
「晴間まつ こころなくさむ為ならめ ほたるは星とあやまたるまで」
5月4日

雨 おもひの外水おちたり 薄き板もて作りたる鵜舟に乗る 川の早きこと矢の如くところところに大岩ありておそろしきけしき也
ようやく渡河出来て福岡村に止宿

5月5日

晴 附地村(付知)にいたる 高弐百八十石余家数四百四十軒人数弐千六百人余と申し、巣鷹山あり 関東に候はば三千石の村なるべし尾張御領のよろしきこと相分かる

5月6日

晴 いての小路山小屋へ参る(出の小路)此所よりは馬は不及申、駕も通り不申 家来末々迄股引半てんに相成出立

5月7日

晴 山見分に参る 山中 やしゃひしゅく(やしゃびしゃ) しやくなき(しゃくなげ) なといふもの多し
「なれやらて 雨とききしはかけひもる 水のしたたり 谷川のおと」

5月8日

雨 下々迄わた入にて土間三ケ所に火たき有之候 熊のしき皮にて焚火の體山家の趣絵本にみへ候山賊の頭のことし

5月9日

晴 山え入候てよりいまた獣類を見不申候と木曽の奉行え承りしに杣かたのことありては諸獣とも三山も四山も逃去候

5月10日

晴 みしものは檜木の類聞ものは こま鳥せきれい、ひよ鳥のことき聲の鳥、鶯のみ也ほうほう鳴鳥あり鳩にはあらす、つ々鳥と云うものの由也

5月12日

晴夜雨 五時より山江参る。けんそのことのいふへき様なし

5月13日

晴夜雨 山の木を切り候而谷へおとせし時の音し殊に大造なるもの也雷の如しおそろしきおと也

5月17日

晴 五時過ぎより山江参る 山の字を高垂といふ 垂とは方言にて瀧のこと也
「あほきみる 名にしおひにし高たるの 雲のみねよりおつる 瀧つせ」

5月19日

雨 加子母村のうち小郷と申はまことの田舎也、わつかの民居の内猟師半に過たり、尾州より被奉候巣鷹のこと奉候ものは辛苦のものにて既にそれがために眼を破、頬をついはまれて人類とは難申もの多しと承る たかはひなを取たるあとに日のまるの扇を置事常也とそ

5月22日

曇時々雨 山小屋出立いたす 附地村より山みち壱里半の峯こえて加子母村江参る 庄屋伊東(伊藤)某か宅惣門長屋にて玄関二十二畳敷鑓鉄炮おひたたしくかさり、某か居間は十八畳にて床違い棚附き、次の間も十二畳にて同様懸物其外ともけしからさる事共土佐画彩色武者の金屏風一双居間に建てめくらし、天井は惣もくの本くろへ杉其の外右に准じたる事にて中々かヽる宅東海道の本陣には見し事もなし驚き入りたる事
「いふせしと みし山さとのめつらしく 都めきたる ここちこそすれ」
加子母村千百石余にて 家数五百軒 高持四百五十軒無高八十六軒 人数弐千四百人余ありという

5月23日

暁よりよくはれ月清し七つ時より支度いたし途中松火てうちんにて小郷江参る是は加子母村之出郷也、猟師多き所也文覚上人之旧跡とある碑のわきに地蔵堂あり三間四方計にてきれい也、三国の峠へ上がる小郷の麓より峠まで二里の上り至って急也、西北のかたえ水別れ候は飛騨国東南のかたへ分かれ候は美濃の国也、せつてうに鳥居あり此処より北のかたかと覚ゆ信州の御嶽山みゆる、此せつてう真北は信濃西北は飛騨東南は美濃の国にていつれも雨分かれを境とす、絶てうにてしょうぎかかり境を尋ねしに加子母村住尾州木曽方吟味方並びに山守山木瀬衛(内木?)いひしはしょうぎのある所は美濃、あしのある所は信濃飛騨にまたかりたるとみゆと申しき、此もの至って質朴の老人也申かた甚奇也、此せつてうに赤き鳥居あり其所より御嶽を拝する事也

5月24日

快晴 附知村田瀬村福知村を経て苗木領遠山美濃守城下苗木町に止宿

5月25日

晴 苗木町より上地村に至り例のおそろしき渡りを越えて落合と申す宿に至る夫より十曲峠之絶頂へ上がる 険阻みち十八丁信州湯舟沢村に至る

6月11日 尾張藩領内の大材のある場所の見分けを終える
1、加子母三浦山 2、湯舟沢村 3、蘭村 4、上松麝香山 5、大瀧村(王滝村) 6、あてら山
6月晦日

本日を持って山のことは全部終え7月11日には江戸へ帰着の予定

【参考文献】 『川路聖謨文書一』 日本史籍協会編 東京大学出版会 昭和42年復刻版
『付知街道誌 近世飛騨街道の記録』 伊藤廣輔 平成19年
 



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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