三番高札 切支丹禁制 多芸郡栗笠村


 高札は制札とも立札とも云われ江戸時代に行われた法令公示の一方式で、すでに奈良時代末からあったと云われております。
  特定の地に特定の目的で立てられたものに、「関所札、堀札、川越場札、浦高札」などがあります。正徳元年(1711)広く一般民衆に基本的な法令を知らせた5枚の高札が、幕末まで約150年の間維持されて来ました。これらは天和二年(1682)の高札を修正補修したもので、「親子兄弟札、毒薬札、駄賃札、切支丹札、」そして「火付札」ですが、ほかに「新田高札」「徒党札」なども出ました。これらの高札には封建倫理の教諭やキリシタン禁制など幕府民政の根幹が示されていました。
  明治新政府も高札の制度を受け継ぎ、慶応四年(1868)三月従来からの高札を取り除かせ、永世たる定札として「人倫札、徒党札、切支丹札」そして暫時掲示すべき覚札として「外国交際札、脱国札」いわゆる〔五榜の掲示〕を建てさせました。
  高札は通常、人々の目をひきやすい市街の中心の辻や出入り口、橋詰めなどに掲げられ、〈札の辻〉などの地名は今日も各地に残っております。
  この高札は現在の岐阜県養老町栗笠の高札場に掲示されていた物です。

 
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一、切支丹宗門之儀は、是迄御制禁之通固く可相守事、
一、邪宗門之儀は固く禁止候事
慶応四年三月   太 政 官



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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