南北街道と御番所の物語


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 飛騨国の口留番所はすでに金森時代、慶長年間から順次数が増やされ、元禄五年(1692)幕府直轄地になった頃には31ヶ所に置かれていた。国内の交通要所に設けられた中番所(小川村大渕)などと違って「御厩野口留番所」は美濃国との国境を抑える重要な関所機能を持った高山御役所の出先機関であった。場所は南北街道沿いの「御厩野字下り谷(宅地32坪・畑21坪)」にあって「桁行4間・梁間3間・軒高9尺の建物」であった。御厩野区で所有する古絵図には御番所と両側の山に至る柵が書き込まれていて、明け六つに開けられた門扉は暮れ六つには閉じられた。この禁を犯した者は御番所破りとして厳罰に処せられた。御番所の仕事は出入りする人々の通行手形を改めたり、通過荷物(米、木綿、古手、茶、塩、漆、莨、小間物、楮、鮪、鰯、糸、綿、布、紬)などに口役銀(くちやくぎん)といって、一定の租税を徴収する事だった。徴収した口役銀は月々口留番所毎に集計され、高山役所から一ヵ年分まとめて江戸表へ送金された。因みに寛政六年(1794)御厩野口留番所で徴収された口役銀は金6両3分永173文であった。出入りの多い「下原口留番所」は2名、他は1名勤番で、概ね三人扶持切米10俵位の手当てであった。
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 口留番所の存在は在郷の村々にとって常々人足の負担が少なくなかった。御番所の門から山に至る迄立てられていた柵は、9尺の棒を1尺間隔に3尺埋め立てて、横棒を2列通して縛ったといわれている。抜け道をふさぐために毎年「柵搦直し」をした。『御用留』にはこの「柵搦直し」に「例年の如く人足」を差し出すよう竹原郷四ヶ村に通達が出された記録がある。人足はその都度四ヶ村に割り当てられた。御厩野、野尻、宮地は各1人、乗政は3人というような割り当てであった。
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 御番所の建替、修復、葺替など費用は公儀負担が原則であったが、亥年七月に御番所の屋根葺き替えのために御厩野村名主忠左衛門から「野尻村縄壱把、宮地村縄壱把、板おさえ壱荷、乗政村縄三把、板おさえ一荷、竹三本、御厩野村縄壱把、竹三本被仰候に付き、御持参」願うよう通達が出されている。  
 役人の勤番は交替制で年間三度も交替したので、その度に陣屋から番所まで役人や家族の駕籠をつり、荷物運びに人足を出した。また、飛騨郡代江戸より国入りの時は番所において行列を正し、拝観の人々に土下座をなさしめて権威を振るった。
 記録によると御厩野口留番所は、宝永五年(1708)宝暦十弐年(1762)文化十弐年(1815)の三度建替えられた。
 寛政弐年(1790)の記録によると門扉は「高七尺五寸、横七尺、附扉弐枚」とある。様々な歴史を見て来た「御番所門扉」の壱枚は野尻曽我家に保存されていたが、御厩野区に返され昭和四十八年に下呂町文化財に指定された極めて重要な歴史的資料である。御厩野今井家に伝わった10段の刀掛けには「御厩野口御番所附 文久二戌年十二月 日 上村存置」(上村木曽右衛門)の墨書がある。共に御厩野公民館に保存されている。
 維新後しばらくは名称を「飛州産物改口留番所」と改めて存続したが、明治五年(1872)明治政府から廃止が布告され、屋敷、建物、備品等が入札により代金七両三分で払下げられて御番所は役目を終えた。

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 さて、飛騨と江戸をつなぐ重要な往還「南北街道」と「御番所」はどんな事件を見て来たのだろうか。
  御番所の近くの丹羽家では門扉の向こう側にある畑を「門外の畑」と云っていた。畑へ通うときはきっと鍬を担ぎ頭を下げて顔パスで通られたことだろう。小郷の旧家の善助さんは頓智の人だった。御番所の庭に花が一杯咲いているときに通り掛かった善助さんは一句 「このごろは ご番所様も風邪気味で そこらあたりはハナだらけ」と書いて差し出した、「こりや参った!よし通れ!」と云って通した。他所者には厳しかった役人も地元民には優しかったことがうかがえる。
 天保十ニ年(1841)の御触書によると「時々番所相通、勤番地役人面体見覚候者」でも手形を見せるのが原則だが「番所附の村方並びに最寄り弐、三ヶ村のもの、其時々手形を以罷候ては便利にて迷惑可致間、口上にて断可相通候」と近隣の村人の日常生活上の往来は手形なしでの通過を認めていた。

 「遠山家文書」によると安永弐年(1773)十一月大原騒動の徒党鎮圧のため苗木藩勢350人余が出役した。「片田家文書」によると十三日に189人が乗政慈雲院、霜屋などに宿泊した記録がある。
 「付知田口家文書」によると、安永弐年(1773)十二月、幕府への駕籠訴・駆込訴を強行して処刑された六人の首が、人足17人にて十八日江戸を出立、二十五日付知、二十七日高山に到着した。

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 『飛騨編年史要』によると文化十一年(1814)測量方伊能勘解由忠敬、飛騨に入り益田街道を下原より、高山を経て古川まで測量し、引き返して高山より阿多野街道野麦まで測量し、信州領へ移る。人数手分けして、一手は苗木より福岡、加子母、下呂、小坂、高山、野麦と測量した。

 たびたび飢饉に襲われた飛騨へ東濃地方から夫食米が通った。天保四年(1833)の大凶作には餓死者続出、惨状を極めた。八月申請された夫食米は米800俵、十月同じく米1000俵であった。天保七年(1836)十一月には米650俵、麦100俵。暮には米800俵が通過した。こういう時、幕府からは夫食金が出た。当時米1俵は概ね壱両、馬一頭に2俵積んだと思われる。

 現在200戸程の御厩野が7戸の時代から在るという旧家紙屋矢沢家の常助さんと轡屋の佐都さんが新所帯永徳屋を始められた。「天保五年御厩野村宗門人別帳」(1834)には「禅宗禅昌寺代々旦那常助27 さと26」と記載がある。たまたま御番所役人「吉住某」が轡屋に娘「里か」を連れて滞在していた。子供に恵まれない常助夫婦は「さと」の縁で娘を養女にもらい受け、長じて大畑丹羽家幸助さんを婿養子に迎えた。「安政六年御厩野村宗門人別帳」(1859)には「禅宗禅昌寺旦那百姓幸助34 養父常助53 養母さと51 妻里か28 娘里恵9 男子竹藏7 金松5」と記載がある。里かさんは次のような吉住家の位牌を持っていて、現在も丹羽家に祀られている。
 【天保八年 松庭院旨常仁武居士 丁酉臘月廿七日
 元祖吉住長右衛門宣武四代之孫吉住平右衛門旨常霊位 嫡子吉住順之助武虎拝護】

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 第21代飛騨郡代になった小野朝右衛門高福(たかよし)は弘化弐年(1845)家族を伴って高山に赴任した。後に山岡鉄舟となる五男小野鉄太郎は若干十歳であった。高山での七年間に書は岩佐一亭に大師流入木道を学び、剣は北辰一刀流千葉周作の高弟井上八郎清虎に学んで共にその奥義を窮めた。時期は不明だが御番所を通った郡代が御厩野小縣家に泊まったと云う「泊まり札」が残り、鉄舟が同家に「癸未夏日 為小縣氏」(明治16年)の扁額を残している。

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 地元の旧家、相地今井家に飛騨高山の根付師松田亮長の「くるみ」の優品と「螺鈿細工馬杓」が保存されている。江戸時代酒造業を営んで見えた当家へ近くの御番所役人がたびたび訪れた。そんな中の誰かがこれを質に一杯引っ掛けて、徳利を担ぎほろ酔い機嫌で帰ってゆかれたのであろう。

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 「中田家文書」によると文久三年(1863)江戸表より御勘定奉行田地改めに付き幕府役人が御厩野御番所より飛騨に入国した。「御朱印証文件裁・岸野金八郎上下七人、御証文件裁・岡村吉郎上下五人、御証文件裁御目付・岡本半一郎上下五人、御手先御用人・○取所左衛門」の都合十八人である、そして下呂湯之島に四日四夜逗留した。九月六日飛騨に入国した一行が高山に着いたのは十三日であった。

 慶応四年(1868)第25代郡代新見内膳正功が江戸へ逃げ天領飛騨の幕政は終わった。明治維新である。東山道鎮撫使竹沢寛三郎が高山陣屋に入り飛騨を接収した。次いで飛騨国中取締りを命じられた梅村速水は初代高山県知事となった。水戸に生まれ、水戸学を学び、抱負と熱意を持って高山に赴任したが急進的な施策が受け入れられず、やがて排斥の一揆に追われる身となった。京都で策動している梅村排撃運動を封ずるため京都へ向かった知事の留守を狙って高山から萩原・下原町村までを巻き込んで、商法方や勧農方など役にある者の居宅を焼き払い、打ち壊し乱暴狼藉の限りを尽くす騒動が起きた。『萩原町史』が記す「二月晦日事件」である。騒動の知らせに急ぎ帰る知事に、高山の反梅村派は高山別院の大鍾を鳴らし、やがて村から村へと寺々の早鍾が鳴り渡り一斉に蜂起した。古川火消を先鋒に高山町火消を殿に鳶口・竹槍などを携え、総勢万余が萩原町村に殺到して、戸谷権十郎宅(桁行22間・梁間19間半このとき焼失)に泊まる梅村一行を取り囲み「萩原戦争」が起こった。やっとの思いで難を逃れた梅村一行は初矢峠を越え「御厩野口留番所」に差し掛かる。時の御番所役人は岩城昇平であった。「我このたび上京いたし、常郡代と相なり帰国のところ百姓騒動ゆえ、百姓を相手に致しては、よろしからざるゆえ、暫く苗木に留まり、鎮国のうえ帰国致すと、駕籠の内より刀に手をかけながら言いて通り行くゆえ、身共一人にて仕方なきゆえに通し候」と『都築家聞書写』は伝える。炊き出しや怖い物見たさに集まった里人に梅村は「またまた逢おうぞ!」と声を掛けた。この言葉は志半ばにして飛騨を追われる梅村の心情を吐露して余りあると古老の言い伝えが残る。この駕籠かきを命じられたのが近所の重兵衛さんと又十さんだった。峠にさしかかる「接待場」までたどり着き「えろうございます!」と云って交替した話が残っている。

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 江戸時代、高山から江戸への往還には夏場は難所野麦峠を越える信州街道が使われた。 和田峠・碓氷峠を越えて江戸まで約86里、中山道あるいは東海道経由よりも短路であった。がしかし、雪の多い冬場は勿論、より安全な飛騨街道から南北街道を経て中山道を行く道が多く使われたに違いない。
  時は下って、明治39年、乃木将軍は203高地の激戦で失った将兵の慰霊のための行脚に廻られた。6月27日、信州の部下墓参の途次、高山・萩原を回られ、下呂を経て飛騨街道に別れを告げ、南北街道に入り元御番所の手前の辺りで地元民の歓迎を受けられた。鶴之助さんもその内の一人だった。丹羽家には人力車に乗って舞台峠に向かわれる将軍を見送った話が残っている。因みに当時の「人力車賃銭表」が残っているが萩原から付知まで「11里13丁・護謨輪・弐圓四拾五銭」であった。高山から萩原宿、付知宿に泊まるのが通常の行程であった。

 「御厩野口留番所」の手前200bほどの所に御厩野の在所に入る分かれ道があって、ここに高札場があったことが古絵図に残されている。『天明八年申三月 飛騨国益田郡御厩野村差出明細帳』(1788)によると「高札場壱ケ所 きりしたん札壱枚 火之用心札壱枚 徒党・強訴札壱枚」が掲示されていたことが記されている。慶応四年(1868)の「三月 太政官」五番高札が旧家に保存されていて、最後の高札もやはり3枚くらい掲げられていたことだろう。また、ここにあったと思われる「右むらみち左げろみち」と彫られた石の道標が近くの今井家に保存されている。

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 「御厩野口留番所」を通って南北街道の難所「七曲り」を超えて峠までの約1キロの山道は杉檜の木立のなか、般若谷に沿って静かなたたずまいを見せ昔の面影をよく残す区間である。その中でも50bほど残る石畳は当時を偲ぶ貴重な遺跡である。このあたりに文化六年(1809)銘の馬頭観音が祀られていたが今は見当たらない。そこから少し行った所に「接待場」があってわずかな平地と石垣が残っていると丹羽さんから聞いた。国道257号沿いにもう一体安政四年(1857)銘の馬頭観音が現存する。舞台峠を越えて小郷に入ったところに36体の石仏群が南を向いて並んでいる。この石仏は西国三十三観音を模したものが多いと云われる。

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 そして小郷の里へ入ると「抜荷番所・役屋」に至る。享保十壱年(1726)太田代官所の支配によって「抜荷番所」が小郷と二渡に出来た。『濃飛徇行記』によると「二渡御番所 抜荷守は細目村(現在の八百津町)各務勘兵衛支配せり、ここにては莨、楮の運上銀を取立、其内莨多し、これ飛騨より出づ」と記されている。また、禁制物資は米や鉄砲などであった。当時食糧不足勝ちであったのでどこも米の領外持ち出しを厳しく取り締まった。鉄砲は犯罪の用具となるのでその取り締まりは厳重だった。「箱根の関所」では「入り鉄砲と出女」を厳重に取り締まった記録が残っている。

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 小坂町に次のような御厩野口留番所あての通行手形が残っている。

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       通り手形之事
  1.男壱人        小坂大洞村   善助
 右之者濃州加子母迄もち少々持参り申者ニ御座候其御口無相違御通し可罷下候尤帰村の節ハ今月下旬ニ者帰宅仕間候猶又名主印形之儀ハ高山表へ罷越間代印ヲ以奉願上候為後日之依如件
   慶應二寅年八月二十五日
            小坂郷湯屋村
                名主  徳右衛門
  竹原御厩野口
     御番所

【参考文献】
  岐阜県史、飛騨編年史要、益田郡誌、飛騨下呂、竹原村誌、竹原郷土誌、
萩原町史、飛騨史料、飛州誌、苗木藩政史研究、遠山家文書目録、
飛騨春秋、歴史の道南北街道、加子母村誌、加子母の歴史と伝承、



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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