伊勢の旅人「松浦武四郎」十王堂に宿す


 平成が令和になった初夏のある日、静岡・掛川の広谷さんが阿弥陀寺を訪ねて来られ、次のような話をされた。それは若き日の松浦武四郎が飛騨旅行をした際に遺した『飛騨紀行』の中に「村名」を失念したが、「辻堂」に寝泊まりして病を癒したという話が出て来るが、『日本の「アジール」を訪ねて』によると「上り下り四里の峠へかかる手前であったことと、前後の行程から判断して、寝込んだのが舞台峠北麓の御厩野だったことはまず間違いない」と云うことから、武四郎研究家の広谷さんが、現地確認のために阿弥陀寺木村住職を訪ねて来られたのだった。そして「辻堂」は「十王堂」であろうと結論付けられた。
 ご教示いただいた資料に基いて稿を起こしていこう。()

 松浦武四郎(1818〜1888)は文化15年、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)に生まれ、幼名を弘(ひろむ)と云った。松浦家は肥前国松浦氏の一族で中世に伊勢国に移住して、庄屋を務めて来たと云われ裕福な家柄であった。弘化元年蝦夷地探検に出発し、択捉島や樺太にまで足を運んだ。安政2年幕府から蝦夷御用御雇に抜擢されて蝦夷地を再び踏査し、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。明治2年には開拓判官となり、蝦夷地を「北海道」と命名した。北海道探検は6度に及び、およそ150冊の調査記録書を遺した。
 武四郎は18歳の天保6年(1835)、約一年を掛けて近畿、中部、はじめて富士山に登り、関東、東北そして四国と旅をした。その途次、越中から飛騨を通り竹原郷御厩野村を経て美濃へ至る道中記を『飛騨紀行』に遺した。
『神岡町史』()によると・・・

 
「高山市立図書館」蔵書
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 越中八尾より飛騨に入った武四郎は「籠の渡し」に乗る。この渡し賃二十文と云う。「最早四月半ばにも成れども、谷間谷間は雪にて、川々の水は泥水なり、是皆雪解けの水にて、手足をつけるや其指先切るばかりに冷たし」この寒い道中に旅籠屋もなく、庄屋を訪ねて一夜の宿を乞うたが、「旅人未だ早き故、先の村まで行んか、わらじ銭少々身上申すと、兎角旅人を泊めざる様に致しぬ其故よしを聞や、総て越中・加賀・能登の三ヶ国にては、浪人と云もの多く有て、此者村々を巡廻して、足銭の合力を云って少々づつ銭を貰居る事なり」と体よく断られてしまって難儀が始まる。日暮れて、人家も無く、困り果てているところへ松明を灯した人が来る。「我は此処より二、三丁山に入り、木地引を致し居る者なり」これは木地師と云われる人であろう。「我は美濃国郡上のものなり」と名乗ってはいるが、高山宗猷寺には木地師の墓二百基ばかりがあって、この辺りではかなりの人が山を渡り歩いて生活をしていたことが窺える。木地師は7合目から上の木材を自由に切る権利「朱雀天皇の綸旨」の写しを所持していたと云われる。「左有ば御言にあまえ一宿の御情を」とついて行くと「同じ風の者二人出迎えて、荷物の世話等致しけるにて、山賊ならず全く木地挽なりし」ことを知ってまずは一安心する。橡の実の粉をいれた粥をいただき、朝はリヤウブの葉を入れた飯を振舞われ、握り飯まで作ってくれて元の道まで送ってくれた。
 さて、釣橋を見物しょうと船津へ廻る。凡そ七、八百軒もある町中に猿橋(藤橋?)を見て、人家もまばらな山中を経て高山に向かう。このあたり所々に石灰釜があって、焼いた石灰を肥やしにするという。交通の便が悪く、物の値段がすべて高い。ようやく高山の城下に着く。「人家五百もあるや、家は巨大なれども随分さむしく」感じられた。

「御厩野村古絵図」 「小川谷解脱堂」  
 
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 「上呂・下呂と少々の川添いの町なり。此下呂と云えるに到り、庄屋に到りて宿を頼、木賃宿に到る、二廻り程湯治なしたれどもなかなか癒えず」頑健な武四郎も「はれもの」に悩まされる。「扨此温泉は川原に有るが、昨年洪水に川土手崩れてより、湯壺大に損じ、湯ぬるく寒くてたまらざるなりし」とて出立、飛騨街道は下呂郷森村「塚田の渡し」で飛騨川の右岸少ヶ野村に渡るが、左岸の村道を下る。小川谷を越したところに寛保元年(1741)の棟札が残る「解脱堂」がある。そのお堂の前に祀られている地蔵菩薩の台座には「右ハ村みち 左ハなかつみち 宝暦7天」(7天は7年の意)と彫られている。冬場雪に閉ざされる飛騨から江戸への往還にはこの道が多く使われた。さて、ここから「なかつみち」最初の難所、石器時代の遺跡が残り、鎌倉街道と言われた石畳が残る初矢峠を越えて乗政村に到る。さらに宮地村、野尻村を経て「一日路行、村名失念せし」御厩野村に到着して街道添にある宿をとったが、病はいよいよ重篤になった。「宿の主人いたく憐れみ、是より四里の峠あり、其からだにては行難し」峠に舞台峠と注釈が付けられている。舞台峠は飛騨と美濃の国境で、「御厩野口留番所」があった。古絵図によると、その手前に高札場と、当時60軒足らずの村の入り口があって、辻に「右むらみち 左げろみち」の道標が置かれていた。道標は現在近くの旧家に保存されている。宿の主人は親切に「庄屋に願、壱両日休みて其より出立せよ」()と、庄屋に連絡を取ってくれた。天保六年の名主は松場家五代目当主忠左衛門であった。()「庄屋も来たり、我を見て如何にも是にては難渋なり、此家にても定めて迷惑ならん故、前の辻堂に到りてはと云いしかば、我も蚕の多き人家に寝るよりはその方よろしと戸板にのせられてきて、むしろの上に寝たるに村中順番に一日づつ握り飯を持運び呉たり」と村人たちが旅人を親切に扱ったことが記されている。「ある夜乞食三人其堂に来たり、此辺にては山家と云うよし」山家・サンガ・山窩と呼ばれる狩猟を生業として、鍋一つを持って山また山を渡り歩く人たちのことである。飯を炊き、汁茶などまでもふるまってくれ、山から薬草を採ってきて煎じてくれた。山家は三日目に出立するとき「我の如き山家に出合給わば郡上の爺と云え」といって別れた。

「畳になっている格子戸の前は、昔は板敷になっていた」 
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 ようやく病も癒え二本杖を突いて峠を越え、やがて苗木の城下町に着いた。ここにても山家に出会い「郡上の爺に三日世話になりし」と云うと「ことごとく我をいたわり」郡上の爺の名前は絶大で、またまた山家の世話になることになり、泊り堂にて同宿する。「近辺の医者を頼連来たり、我に煎薬十二帖を貰呉」れる親切さに「今筆を取るも涙こぼるるばかり」である。さて、いよいよ本服して、再び旅を続ける「小高き山の上、蜂の巣の如く緑樹の中に赤き壁の城」を見て木曽川を船で渡り、中津川へ着いて『飛騨紀行』は終わる。()

「明治14年以前は一番下流の渡し場が使われた。九十九折道を登ると苗木城に至る」
「御厩野阿弥陀寺が所有する涅槃図と裏書」
「野帳を手にする松浦武四郎 岩橋英遠」
日経新聞から転載
「蕗下コロボックル人の図 北海道人 弘印」
     (武四郎の雅号と本名)
日経新聞から転載
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(註) 下呂市御厩野にある巌谷山阿弥陀寺、臨済宗妙心寺派、天正十三年の「天正大地震」で鳳慈尾山大威徳寺と共に廃絶した「西之坊」(御厩野字南)を、萩原禅昌寺五世功叔宗輔が慶長年中「阿弥陀寺」として再興し、明治になってから現在地(御厩野字門坂)に移築された。
(註)

十王堂は創建当初から御厩野村字林畑にあり、鳳慈尾山大威徳寺の受け持ちであった。大威徳寺廃寺後は阿弥陀寺が管理し、昭和になってから境内に移築された。
古書によると堂宇は縦三間、横三間二尺と書かれている。三段程の階段を上ると、間口三間×奥行一間半ぐらいが板の間で、格子戸で仕切られた後半分は祭壇の間である。極彩色で飾られた木彫の十王仏が並び、背後の壁には地獄極楽絵図、また、西国三十三所の観音仏も安置され、近郷近在の信仰篤き善男善女の尊崇を集めていた。

(註) 飛騨は金森藩が治めていた頃は「肝煎」天領となった数年後の元禄十年からは「名主」と呼ばれた
(註) 阿弥陀寺が所有する「涅槃図」の裏書に天保六年に購入した経緯が書かれているが「名主松場忠左衛門、組頭長吉、百姓代忠右衛門」とある。また、御厩野村に残る唯一の完本である「天保五年飛騨国益田郡竹原郷御厩野村午宗門人別帳」には「名主忠左衛門」と書かれている。
(註) 『飛騨史壇』5巻4号(大正9年)正月号に、松浦孫太氏が寄稿された「松浦弘の傳(附飛騨紀行)」を『神岡町史』が飛騨に関係する旅行記・紀行文の中で取り上げた。
(註) 木曽川の渡船場は、苗木城から下に降りたところ「上地村」と対岸の「駒場村」を結んでいて「上地の渡し」と云われていたが、現在は場所を特定できない。
【参考文献】
  『神岡町史』 昭和51年  神岡町
    『歴史の道調査報告書』 昭和58年  岐阜県教育委員会
    『河原ノ者・非人・秀吉』   2012年  服部英雄
    『日本の「アジール」を訪ねて』   2016年  筒井功



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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