大威徳寺物語  高山御役所の通知


 この文書は「御厩野口留御番所」の資料調べに県歴史資料館へ出向いたときにたまたま見つかった。『飛騨郡代高山陣屋文書目録』に記載がある『御厩野口御番所口役銀取立帳』など十数冊が資料館に保存されている。その中の一番大部な一冊『御用留』に大威徳寺関連の記載があった。『御用留』は天保五年から元治元年(1834〜1864)迄30年間の諸事報告を御番所から高山御役所へ書き送った帳綴である。
  天保六年(1835乙未)に御番所から次の様な通達が出されている。
 
一、人足壱人 御厩野村一、同壱人 野尻村
一、同壱人 宮地村一、同三人 乗政村
右者明後廿五日例年之通威徳寺伐塞場所為締方山見附添相越候間
書面之人足差出可申候、此書状早々順達留村より可相返候以上
未三月廿三日 御厩野口御番所
右村々 名主
与頭
 
 この書状で注目すべきは「例年之通り」に「威徳寺伐塞場所」へ人足を差し出せというところである。当時大威徳寺跡はどうなっていたかというと、寛文九年(1669)の『竹原郷田畑高帳』写では、「安国寺領みまやの村鳳凰山大威徳寺 田方1反6畝14歩 畑方1反1畝29歩」とあるが、26年後の元禄八年(1695)の『御厩野村田畑屋敷御検地水帳』によると、「大威徳寺跡 荒場6畝12歩 山内5町1反5畝歩 灘郷高山 宗猷寺抱」となっている。「宗猷寺」(旧名新安国寺)の所有であるが、竹原郷から人足を出せと口留番所から通達が出ている。天保七年には「明十六日」に人足を差し出すよう「十五日」に通達を出している。名主達はきっと「順達」に走り、人足のかりだしや「留村より相返す」ように走り廻ったことであろう。通達はその後「早朝より子供老人等相除き達者な者」を差し出すよう、また「御厩野村2人、野尻村2人、宮地村3人、乗政村6人」と変わっていった。この人足割りから竹原郷四ヶ村の人口比が想像出来る。
  まだ他に、「柵搦直し」に「例年の如く人足」を差し出すよう通達が出されている。 御厩野区に残る古絵図には御番所の門から山に至る迄柵が立てられていた様子が画かれている。柵は9尺の棒を1尺間隔に3尺埋め立てて、横棒を2列通して縛ったといわれている。抜け道をふさぐために毎年「柵搦直し」をしたのであろう。
  これらの通達等でわかることは、口留番所は単に他領の男女僧俗の出入り改めや古来定法の壁書による口留運上の徴収だけではなく、高山御役所の出先として地域に支配を及ぼしていたことである。
【参考文献】
『飛騨郡代高山陣屋文書目録』 岐阜県歴史資料保存協会 昭和58年
『竹原郷田畑高帳』 寛文九巳酉年 地蔵寺所蔵 『飛騨下呂』 昭和58年
『飛騨国益田郡竹原郷御厩野村田畑屋舗御検地水帳』 元禄八乙亥年二月 御厩野区所蔵
『関所 その歴史と実態』 大島延次郎 昭和39年
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御厩野区に残る古絵図
『御用留 御厩野口』
『寛文高帳写』 地蔵寺所蔵
『元禄検地帳』 御厩野区所蔵



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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