大威徳寺物語  多聞坊世に出る


 地元の加子母村小郷では親しみを込めて「多聞さま」と呼ばれている「多聞坊」は、大威徳寺の表玄関に当たり、十二坊のうちで重要な位置を占めて居た。多聞坊を出て尾根を越え、般若谷を渡り更に山を登ると仁王門にたどり付く。この間およそ2kmもあるだろうか。多聞坊は大威徳寺本堂から正面ほぼ真南、直線距離で約1kmの地点にあった。
 多聞坊と言えば先ず浮かんでくる名前が住僧「慶俊」である。大威徳寺に関係して何千人ものお坊さんが居た事であろうが、名前を残した人は何人もいない。その中で『飛州志』に記された「濃州長瀧寺阿名院所在経文末書」に大威徳寺の大要を書き残した(1587)「多聞坊慶俊」は特筆されるべきであろう。また、和川白山神社に残る「慶長十八年」(1613)銘の大般若経箱墨書にも、「則正村人祈祷坊主多聞慶俊」の名前を残している。
 『加子母村誌』には丹羽幸一さんのこんな話が載っている。「一作叔父さんは歯が痛くなるといつも多聞寺さまへお灯明をあげてお参りしていた。少年の日の私に、次のような 多聞寺の話を聞かせてくれた。多聞寺様は昔威徳寺十二坊のうちの東坊で、坊さんのお墓のあった所で、お城山から威徳寺へ行く通り道にあった。威徳寺へ行く坊さんや侍たちはこの寺で一服して、それから舞台峠を越して威徳寺へ上がったもんや。よろいかぶとに身をかため、足ふみならして通った鎌倉武士、深いまんじゅう笠をかぶり、墨染の衣を着て白い脚絆に草鞋ばきで独鈷を鳴らして通る坊さん、大なぎなたをかついで白い布を頭に巻いた僧兵、美しく着かざって黒い髪をたらし、駕籠に乗った鎌倉の女御達、みんなこの寺にお賽銭を上げてお参りして休んだもんや。威徳寺が大地震で倒れて焼けてしまった日に、多聞寺も亡びてしまい、何処かよその国へ寺の籍を売って廃寺になってしまった。」
 『加子母の歴史と伝承』によると、名古屋市昭和区川名山町にある香積院(こうじゃくいん)の縁起には、「この寺の前身は多聞寺で、元禄二年(1689)に現在の処へ移転し、香積院と改号した」と記されている。『香積院のお姿』には、「貞享四年(1687)久屋町の豪商味岡次郎九郎が、早死にした一人娘の菩提を弔うために、現在の寺地をお布施として寄付したことに始まる」が、当初の寺号は「多聞寺」であったと書かれている。元禄期に多聞坊から移築された山門が当時のまま残っており、一つは「総門」一つは「丸門」または「龍門」と呼ばれて居る。総門は「むくり屋根」と言われる丸みをおびた形式の屋根で、丸門は更に丸く垂木は曲線を画いて左右に流れ、優美な姿の門である。
 多聞坊跡地は、平成十五年地元有志と地蔵尊世話人会により「十三重の塔」が建てられて整備され、護持されている。わずかに残る苔むした墓石などに昔が偲ばれる。
 なお、御厩野今井孝幸氏所持の大般若経の裏書きに「恵雲山多聞寺」の書き込みがある。
 その他に、万賀黒沼田平にあったと言われる「道照坊」も末寺の一つであったが、大威徳寺廃絶ののち衰え、残っていた寛永二年(1625)銘の梵鐘も、飛騨の某寺へ譲られたと言う。元禄頃、白谷山永養寺となって再興されたが昭和十九年焼失して終わる。
【参考文献】
『飛州志』       大衆書房         昭和44年
『加子母の歴史と伝承』 加子母村文化財保護委員会 昭和58年
『加子母村誌』     加子母村誌編纂委員会   昭和47年
『香積院のお姿』    味岡山香積院案内パンフレット
丸 門   総 門
   
 
多聞坊跡地   多聞坊史跡 全景
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