「頃は安永ニ癸巳春三月飛騨国御代官大原彦四郎殿検地御入被成候に付 百姓中嘆願申して江戸表へ罷出松平右近将監様へ駕篭訴仕候よし其後奥飛騨は古田新田共に縄御入被成 益田郡下々は新田所斗へ縄入末残り之所も有右検地の奉行衆
十月十八日 |
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水谷祖右衛門様 斎籐善右衛門殿 瀧又右衛門様 鶴田甚三郎殿 御普請方内藤浅次郎殿 今井勘助殿 付知村御泊り江戸表へ御引取 御荷物はつゞら弍つ、長持三棹、分持七つなどこの持ち送り人足百人余、宿々にて小使人足 四十人程 馬六疋 右の御宿三軒也 |
同 月廿日 |
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大原様御手代大嶋庄九郎殿 付知御泊り 同御手代稲川勇助殿 昼お通り |
十一月十三日 |
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大原様御手代足立忠治右衛門殿苗木御城下江御出之由にて付知御泊り |
同 月十五日 |
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苗木城主遠山出羽守様御内神山新左エ門殿 纐纈与右衛門殿他御道勢百人余 足軽人足百廿人程 乗馬三疋 付知御泊り 御宿拾軒 小使い凡そ百人程 同出羽守様御内伊藤与惣右衛門御道勢拾弐人 人足五拾人程御連 付知昼御通り |
同 月十六日 |
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岩村城主松平能登守様御内三好源太夫様 岩松藤市様他道勢百九十人余
乗馬三疋 付知村御泊り 御宿拾三軒 御荷物送り人足百廿人程
宿々小使いの者百四拾人程 旅籠代御払御泊被成候
苗木岩村衆飛州へ御入込之節は苗木様は下呂にて御装足御改弓鉄炮鑓等
御持参小坂泊り 高山へ御乗込之由
岩村様は加子母木曽谷にて御装束御改弓鉄炮鑓棒御持参にて小坂泊
高山へ御乗込之由
六つ頃 江戸御勘定奉行石谷備後守様 川井越前守様より大原彦四郎様へ昼夜刻時之早七り来る(早飛脚) |
同 月十八日 |
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日々に江戸より早七り来る 江戸江飛州高山より早七里 此道筋櫛之 羽を引く事候 |
同 月十九日 |
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尾州代官所騒動の儀御達仕候 |
同 月廿三日 |
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山様御内長谷川伊左衛門殿道勢十人計り飛州へ御通り
飛州百姓之内三福寺村半兵衛 下坪村治左ヱ門 漆垣外内村徳右衛門
八賀町方村又左衛門此四人江戸表より御尋之者にて候間見出し候はば
押留置御注進可仕由、尾州御代官所より御触れ来る |
同 月廿四日 |
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能登守御内長谷川藤治殿道勢十九人付知御泊り飛州へ御通り |
同 月廿五日 |
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尾州郡方御代官井田忠右衛門様御手代岸上弥右衛門様道勢十人具足御持参にて川上村より加子母へ御通り付知昼弁当是も飛州騒動に付御出加子母村江御扣へ被成御座候
金山郷江は尾州大代官児嶋幸左衛門様御出被成候御座候由承る
御国方人別方目明し助左衛門、甚七郎加子母より川上村へ御通り 是は飛州より御尋者四人之者共御吟味に御廻り被成候 |
同 月廿七日 |
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飛騨高山大原様より早七里江戸へ通る |
同 月廿九日 |
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高山より江戸迄早七里通る
御代官様より往来之者共男女何者によらず相改め不慥成者をば送り出候様被仰付候
飛州百姓三十三人江戸表へ召し出され候付茂木沢衛門殿より書付持参
付知村に泊まり |
十二月朔日 |
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早朝先村へ罷越申し候右百姓泊りの由於加子母御代官様へ御注進仕候
苗木衆土井新八藤井彦八飛州へ御通り但し馬弐疋遣す是より早七里追々
通行苗木岩村家中壱両人程つつ往来 |
十二月十二日 |
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岩村能登守様御家中御帰城にて付知村御泊り出羽守様御家中者 |
同 月十四日 |
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出羽守様御家中者御帰城也右之人足凡百六十人程苗木通り之節は
川上人足弐拾人付知人足百八拾人程田瀬村へ送り申し候 |
同 月十五日 |
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京栗田御用之立絵尋にて武川久弥と申者飛州へ通罷申候 右大名衆御通
行之注進 是は下呂久兵衛にて直々高山へ被召御吟味に付申候由扨々
能き目に逢申近在之者共手をたたいて悦申候 |