大威徳寺物語  西之坊からの眺め


 大威徳寺跡から御厩野の在所をへだてて、北西に直線距離1.5kmの地点に「西之坊」跡地がある。御厩野字南2145番地(約150坪)と言うところである。すぐ近くに屋号「南」と言う御厩野が7軒の時代から続いて居る旧家があって、阿弥陀寺にあるもっとも古い過去帳に「宗松禅定門 南惣左衛門 元和元年正月弐拾九日」(1615)の記載がある。この家には大威徳寺へ野菜を納めたときにもらった茶釜があったという話が伝わっている。この茶釜には馬の手綱をとる馬子が画かれた地紋があったと言われている。これから想像すると西之坊は大威徳寺への食料供給の任を負っていたのかも知れない。「米付け平」が訛ったのであろうといわれる「米搗平」も大威徳寺の御厩野側にあって納得しやすい。
 大威徳寺を正面に見るように高さ2b、横25bの石垣が築かれており、その上に屋敷が造られて居る。この石垣に立つと拝殿山から字威徳寺につながる台地、そして御厩野の大半が見渡せる。西之坊では、「威徳寺合戦」の軍馬のいななきが聞こえ、炎上する大威徳寺が手に取るように見えたはずである。
 天正十三年(1585年)帰雲城埋没で知られる大地震が起きて、大威徳寺も廃絶となる。荒廃した西之坊を「阿弥陀寺」として再興したのは、萩原禅昌寺五世功叔宗補である。功叔宗補は慶長十四年(1609)示寂、推定年齢90歳と記されているので、西之坊荒廃から再興までの期間は案外短いのではないだろうか。なお『萩原町誌』では「慶長年中再興」となって居る。明治二十二年、東北に直線で400mの現在地に移された本堂庫裡(十一間×六間)は民家風板葺屋根であったが、昭和初年入母屋風瓦葺屋根に改築されて寺院の風格を備え、現在に至って居る。屋根下に旧い骨組みが残って居るが、この棟札には「奉再建草堂云々 天明八申三月廿日 現住 智顕誌」と書かれているので、天明八年(1788)阿弥陀寺五世南叟智顕座元によって再建されたことがわかる。
 西之坊跡地の石垣については次のような古老の言い伝えが残っている。高山から石工集団が来て、トウズルを使って大石を操り、御厩野村で4ヶ所石垣を築いた。地元ではトウズルを見るのが初めてで、宮地村、乗政村からも見物に訪れたと言う。時代ははっきり解っていないが、江戸時代初期あるいはもう少し前のことかも知れない。中期以降は新田開発が盛んで石積みの田圃が作られるようになる。この石垣は風雪に耐えて約四百年、御厩野の移りかわりを眺めて来たことになる。
【参考文献】
『禅昌寺史』   禅昌寺史編纂委員会 平成11年
『益田郡誌』   大衆書房      昭和45年
『萩原町誌』   萩原町誌編纂委員会 昭和37年
『阿弥陀寺史要』 渡辺真砂路     昭和33年
「西之坊の石垣」   「東正面に見えるのが威徳寺台地 右が舞台峠」
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