大威徳寺物語  常楽寺と蟠龍寺


 東白川村史跡第一号に登録されている名号石碑は無惨にも四つ割りにされた「南無阿弥陀仏碑」である。かって大威徳寺の末寺といわれた「安泰山常楽寺」の山門脇に天保六年(1835)建立された碑は、高さ2.35b、幅77a、厚さ50a、信州高遠村の石工伝蔵の手による立派なものであった。一字の大きさは米一升入ると言われ、近郷の善男善女からは“ごいっしょうさま”と崇められていた。
 明治三年(1870)苗木藩が強行した廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、この石碑も藩役人の命令により取りこわすことになり、伝蔵が再び呼び出された。伝蔵は期するところがあったのか、
粉々に打ち砕くことなく、節理に従い見事に縦四つに割った。四つ割りにされた碑は付近の池や畑の脇石や踏み石として名号の文字が見えないように伏せ込まれた。時は流れて昭和年代、神土平地区内で悪疫などによる不幸が続出したために、誰言うとなく「仏石埋没のたたり」と言ううわさが流れた。 大正六年慈恵医専を出た医師、御厩野生まれの日下部浩平は神土天祐館に婿入りして安江姓となったが、氏の主唱により四散した碑石を集めて現在地に再建した、と言われる。
 廃寺となった当時の常楽寺は、本堂5間×7間、庫裡5間×6間、それに2間4方の地蔵堂と鐘楼、鎮守は小祠で天神を祀り、寺領は田4反歩、畑2反歩ほどを有していた。
 なお、廃仏毀釈の時に移された物であろうと思われる同寺旧蔵の「八勝軍」一軸が御厩野阿弥陀寺に祀られている。軸止めには次のように記され、祈祷を行うときの本尊として祀られた軸で有ることがわかる。「宝暦三癸酉□□ 神土村常楽寺慈門記 施主伊藤八十吉大明神□□ 此代金二歩 一切祈祷之本尊帝釈天十徳善神八勝軍」 慈門は常楽寺六世「円峰周和尚禅師」で宝暦三年(1753)寂と言う。
 東白川村史跡第二号に指定されている「青松山蟠龍寺」跡は五加大沢にある。4百余坪の敷地と法(のり)が垂直に近い自然石横積み方式の見事な石垣を持つ遺跡である。川の両岸まで迫る山、街道を見下ろす位置、これは砦の跡ではないかと思わせる。
 『東白川村誌』には「山深いわが村では、中世に関する文献・記録は皆無に等しい」とあるが、『文字の世界と近代教育』には次の様に記されている。「越原家の先祖は、室町時代初期に伊勢国大杉谷より美濃国神土に移り住んだ安江左衛門尉政氏に繋がるといわれています。政氏は、伊勢平氏と伝えられており、越原家を含む安江一族は、平姓も名乗っています。」村雲、柴田らの郎党を伴って伊勢国から来た安江氏は白川筋、佐見筋一帯に勢力を張るとともに、大威徳寺の有力後援者となっていった。「大威徳寺、兵火にて焼失すれども経蔵は相残り」と言われる旧蔵の大般若経六百巻、釈迦十六善神尊像一軸、古南京の神酒瓶子一対が施主であり、安江氏の宗家である神土邦好家に返された。大般若経の奥書には「応永五年 見勝禅尼、平宗室、平宗家、平貞宗」(1398)等の名前が記されていたと言われる。鎌倉幕府の命で建てられた大威徳寺に平氏の名前が記された大般若経が修飾された人脈関係の謎は複雑である。
【参考文献】
『益田郡竹原村誌』    島倉享一       昭和7年
『東白川村誌』      東白川村誌編纂委員会 昭和57年
『文字の世界と近代教育』 名古屋女子大学    平成7年
「常楽寺四つ割りの碑」   「阿弥陀寺蔵掛軸 八勝軍」
蟠龍寺案内板
石 垣   石 碑 群
安江浩平氏の生家 御厩野の東田   同氏の残した短冊
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