竹原郷乗政村にもあった大原騒動「義民・小瀬増右衛門」


中 島 豊 和  

「明和八年(1721)から寛政元年(1789)の約20年間にわたり、飛騨国で断続的のおきた三つの一揆・打ちこわしを総称して大原騒動という。大原彦四郎代官(のち郡代に昇進)、同亀五郎郡代の治世下での農民闘争であったからである。三つの一揆・打ちこわしは明和・安永・天明期に発生したが、その中でも安永の一揆は中心的なもので、磔・遠島などを含めて一万人にもおよぶ処刑者をだした大規模な闘いであった。」(『岐阜県の歴史・松田之利ほか・山川出版社 2000年』より)
 乗政村の小瀬増右衛門は川西村出身の広瀬清七郎と共に、検地反対・大原代官罷免運動に加盟して、駕籠訴、駆け込み願いの直接行動に加わった。その後、郷里乗政に潜伏していたものの、家族親戚に類が及ぶことを恐れ、家人を折からの祭礼芝居見物に薦めて家を空けさせ、その留守中に割腹自殺を遂げた。その結果、家屋敷全財産を全て取り上げられ、お家断絶となった。彼には一人の幼い男の子がいたが、東濃苗木から同家に来ていた乳母の機転で女児と偽って調べの役人から逃れた。この遺児が後年村に立ち返って絶家となっていた小瀬家の跡を再興したという。これが現在の小瀬家であると、後世の人によって記録されている。そして今、何事もなかったように同志であった広瀬清七郎の碑の横にある小瀬増右衛門の墓は高台から乗政の集落を静かに見守り続けるように鎮座している。
 前述の記録が当家やその親族の方によって、連綿かつ鮮明に語り継がれているのを確かめた時は誠に驚いた。しかも伊藤佐枝子氏(小瀬家の子孫)がこの乳母の子孫の家を訪ね当てられたご努力には心が熱くなる思いがした。また、墓が大切にされてきたことは、いかにその行いが当時の民衆の心に強く響いていたものであっただろうと想像される。安永騒動で獄門とされた本郷村善九郎の墓が時の政権によって地面に埋められても、民衆によって掘り出されて拝み奉られてきたことが数度繰り返されたことと重なるものがある。
 さて、小瀬増右衛門については、「図説・大原騒動 飛騨百姓一揆の史実と伝承(図説・大原騒動刊行会郷土出版社1992年)」に記載はなく、他の書物も同様である。小瀬増右衛門について書かれた古文書は、あまり残されていないのであろう。しかし、僅少の古文書によると、小瀬家は当時乗政村の名主を務める村第一の豪農であったという。そのような家に生まれた宿命を背負った人生と片付けてしまうのには何か心寂しいものが残ってしまう。今なお小瀬家に伝わる増右衛門の最期を思うと、「無念」という気持ちは何百年経っても正確にしかも連綿と受け継がれていくものだということが証明されたという思いがした。
 私たちは義民・小瀬増右衛門の足跡をさらに調べねばならないとおもう。その研究を後学に期待するものである。」

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 この稿は永年大原騒動を調査研究して見えた地元の中島豊和先生の遺稿です。
写真は2016年子孫が集まって「義民・小瀬増右衛門」の供養をされた時のもので、伊藤さんから提供されました。
 なお、乳母の生家は中津川市加子母小和知の島田田口家だと云う事です。聡明な乳母に小瀬家の話を聞きながら育った息子「枡右衛門」は、断絶した小瀬家の長子である身分を憚り、非業の死を遂げた父の菩提を供養するため日本廻国供養の旅に出ました。転々と諸国を廻り、大坂天王寺の地で縁あって結ばれた女性に女の子が生まれました。女性は六歳までこの地で育てた娘を伴ってはるばる、枡右衛門の許へ来ました。明治期、片田姓となった枡右衛門の一人娘「こよ」は婿養子を迎え、昭和2年87歳の天寿を全うしました。枡右衛門夫妻は大原騒動後難の恐れが無くなった安政三年「奉納大乗妙典日本廻国供養塔」、続いて同志「広瀬清七郎為菩提」の石碑を建てて菩提を弔いました。

 清七郎は川西村古関・森文右衛門の第二子で高山町二之町広瀬屋半平の養子となりましたが、性貞廉にして才識が有り、郡中取次役を務めました。その清七郎が松平越中守定信へ提訴した訴状の一部が村誌に載って居ります。

「飛騨国三郡百姓共今般御願奉申上致御儀御座候処私儀是迄郡中取次役相勤め日々に御陣屋に相詰め御上納之品々其外百姓請願筋取次仕候者に御座候に付此度願之節私罷出御願奉申上候様郡中一同相願申上候所実に百姓困窮に無相違勿論難義之筋数々御座候間畢竟御年貢御上納差支に可相成は眼前に奉存候尤に候得者御上様より義奉恐候御義奉存候百姓総代之者引連罷出御願奉申上度右内談相加り罷在候所当三月廿六日右に付私へ御咎め被仰付親類組合へ御申渡相成依々罷出御願奉申上候儀不相成難ケ敷存候に付乍恐奉願上候は何卒上々様御慈悲を以て私被取出一国難渋仕候始末御吟味被仰付被下置候様奉願上候尤総代之者百姓共より可奉申上候得共其村其郷之義は呑込罷出候得共国中一円之儀は委不奉存候然共困窮の百姓郷々より罷出候儀難仕漸両三人罷出候間何卒厚き御憐慈を以私被取出御吟味仰付被下置候はば難有奉存候広大之御慈悲を以右願之通被為仰付被下置度乍恐以名代奉願上候
以 上
    寛政元酉年五月     飛騨国大野郡高山町二ノ町  清 七 郎
松平越中守様

【参考文献】
  『続川西村誌』 昭和34年 川西村誌編纂委員会
    『益田新聞』   1976年8月14日発行



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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