「修 斎 の 書 状」


猶々京都之事追々申上度與奉存候間、国元之様子抔
此飛脚へ御報願上候。
此度上京仕候ニ付、兼而変革可相達旨被仰候間、
態以飛脚呈愚札候。 一橋様宇内之御形
勢を御察し是迄御政権被遊奉帰候ニ付、
御所ニおゐても萬機御裁決被遊、
徳川祖先之制度美事良法ハ其侭御変更
も無之、御用ひ之旨被仰出、然處尾、越、土、芸、
薩者勿論、西國中國之列藩奉御請候て、
鎮撫将軍御下向之節夫々為請加勢、士卒
警衛被致候。小堀、多羅尾、石原之三家之事ハ
早速御公儀をも不顧 禁裏御支配被相願候処、
是迄之通御代官被仰付候由、就夫御國元之事、
心頭ニ相懸申候間愚案申上候。扨 御公儀表
如何被仰越候哉、飛駄隣國加州始として大藩
官軍之警衛いたし相随候由、國元ニ者桟道者
険阻堅固之地ニ者候へ共、最早列藩相随候上ハ
官軍ニ相敵し被遊候而者、畢竟如何與奉存
深察候間、御同列様へも御達シ被遊早々
御評議被遊度與奉存候。定而御高配も御坐候へ共
笠松、信楽へも御聞合被遊度と奉存候。京都ニても
旧冬十二月 一橋様御下坂之節、御公儀方之烈士
大小共妻子相捨、御供之方ハ帰京不相叶、其節相残り
候分者改而是迄之通御召出候由、右時節故此度
鎮撫将軍國元へ御下向被遊候へ者、厚御饗
応被遊度候而者如何、御郡代様始如何被召思候
哉と奉存候へ共、京都始末前文之通一応御達被遊候而、
先ハ以愚毫申上度如此御坐候。
  恐々謹言
  二月朔日           修斎拝具
  市村近右衛門様
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【説明】
  1.一橋様 十五代将軍徳川慶喜
    2.東山道鎮撫総督岩倉大夫具定 東山道鎮撫使先発竹澤寛三郎
    3.小堀京都代官 多羅尾信楽代官 石原大津代官 屋代美濃郡代(笠松)
    4.二月朔日 慶応四年
  【参考文献】
    『飛騨人物事典』     高山市民時報社    2000年
    『飛騨編年史要』     大衆書房       昭和44年
    『江戸幕府の代官群像』  村上 直       1997年
    『美濃郡代・代官過去帳』 笠松町歴史民族資料館 平成11年

 「明治維新」夜明け前の京都の混乱振りを活写し、飛騨高山の進むべき道を模索して、地役人市村近右衛門に送った生井修斎の達筆な書状があります。
 「修斎」は文政十一年天性寺町に生まれ、京都の安藤石見介らに医学を学び、安政六年一之町に漢方内科を開業、慶応四年陣屋御出入り医師となり苗字を許され、明治初年に私塾を開き、後に三輪源次郎と共に一之町に煥章学校を創設しました。
 市村家は代々地役人で「成章」は六世、文政十年に生まれ、名は近右衛門と言い、高山県権少属、高山県社寺係、飛騨水無神社祢宜等を歴任しました。余談になりますが成章の弟「成言」は下原福来口御番所役人として赴任し、金山市村家の先祖となりました。
 なお、読み下しと種々ご教示を頂いたNさんに厚くお礼を申しあげます。

『飛騨春秋』 2005年 1月号 掲載



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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