幕府直轄領の飛騨の国では江戸時代中期、明和、安永、天明の18年間にわたる農民騒動が続きました。第12代代官大原彦四郎・亀五郎父子に由来して「大原騒動」と名付けられましたが、安永2年(1773)逼迫した幕府財政を建て直すべく80年振りと云われる再検地を強行した代官に対し、もっとも大規模で、悲惨な安永騒動が起きました。
11月14日夜、郡上八幡青山藩勢の内、大将赤松・川口らは手勢を引き連れ、折から神力を頼って水無神社に、或いは神主宅に篭もる農民達を召し捕りに向かいました。神主森伊勢守は農民達とともに、また神主山下和泉守も大勢の農民とともにからめ捕られました。安永3年この騒動に連座して処刑される本郷村善九郎は齢わずかに18歳でしたが、妻かよ宛に送った遺書は岐阜県重要文化財になっていて、一読涙を禁じ得ません。
改易となった両神職家に替わって信州から梶原伊豆守家熊(1723〜1801)が登用されて神主となり神社の実権を握ることとなりました。梶原家はもともと水無神社に由縁のある家柄でした。梶原家の祖先に当たる大江助高は大江匡房の孫で正3位参議、永万元年(1165)水無神社の神主を務めました。信州に移って森下村、或いは今井村で神職家として続き、梶原姓となって伊豆守家熊はその30代目に当たる人でした。安永7年(1778)請われて水無神社大宮司となり従五位下遠江守に任ぜられました。従来、両部の神社でしたが唯一神道に改め、社殿の改築造営に努めました。2代目は従五位下肥後守景直、飛騨梶原神職家3代目が従五位下陸奥守景審(1798〜1872)です。位山一位御笏の皇室献上や社殿の改築を行いました。4代目茂(いかし)の時、毛利氏に改姓されましたが、明治5年大宮司世襲制も終りをつげます。
本稿を書くにあたって、『梶原家史略』をもとに梶原・毛利家の略歴を御教示いただいた吹田市にお住まいの7代目毛利氏に篤くお礼を申しあげます。