「往 来 一 札」
飛騨国一宮 梶原陸奥守


「通り手形」などと呼ばれた「通行手形」は住まいする村の名主又は庄屋、或いは旦那寺が発行するのが通例でした。慶応2寅年(1866)小坂郷湯屋村の名主徳右衛門が発した御厩野口留御番所あての「通り手形の事」などが郷土史に紹介されております。
  この「往来一札」は「梶原陸奥守平景審 花押」とあり、さすが飛騨一ノ宮の所在地らしく「飛騨一宮水無神社三代大宮司従五位下梶原陸奥守平景審(かげあきら)」と言う大変立派な発行者で珍しいものでした。
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     往 来 一 札
一、 飛騨国一宮配下森一応齋事
諸国為修行罷出候所々
御関所無相違御通し可被下候若
相煩病死仕候ハゝ其所之御作法ニ而
御処置可被下候其砌此方江及沙
汰不可申候若又行暮候節者一宿
頼入候其為往来一札如件
  文政十年亥二月日
          梶原陸奥守平景審 花押
  所々御関所       村々庄屋役人
        御役人衆中
  国々御領主       宿々問屋役人

 幕府直轄領の飛騨の国では江戸時代中期、明和、安永、天明の18年間にわたる農民騒動が続きました。第12代代官大原彦四郎・亀五郎父子に由来して「大原騒動」と名付けられましたが、安永2年(1773)逼迫した幕府財政を建て直すべく80年振りと云われる再検地を強行した代官に対し、もっとも大規模で、悲惨な安永騒動が起きました。
 11月14日夜、郡上八幡青山藩勢の内、大将赤松・川口らは手勢を引き連れ、折から神力を頼って水無神社に、或いは神主宅に篭もる農民達を召し捕りに向かいました。神主森伊勢守は農民達とともに、また神主山下和泉守も大勢の農民とともにからめ捕られました。安永3年この騒動に連座して処刑される本郷村善九郎は齢わずかに18歳でしたが、妻かよ宛に送った遺書は岐阜県重要文化財になっていて、一読涙を禁じ得ません。
 改易となった両神職家に替わって信州から梶原伊豆守家熊(1723〜1801)が登用されて神主となり神社の実権を握ることとなりました。梶原家はもともと水無神社に由縁のある家柄でした。梶原家の祖先に当たる大江助高は大江匡房の孫で正3位参議、永万元年(1165)水無神社の神主を務めました。信州に移って森下村、或いは今井村で神職家として続き、梶原姓となって伊豆守家熊はその30代目に当たる人でした。安永7年(1778)請われて水無神社大宮司となり従五位下遠江守に任ぜられました。従来、両部の神社でしたが唯一神道に改め、社殿の改築造営に努めました。2代目は従五位下肥後守景直、飛騨梶原神職家3代目が従五位下陸奥守景審(1798〜1872)です。位山一位御笏の皇室献上や社殿の改築を行いました。4代目茂(いかし)の時、毛利氏に改姓されましたが、明治5年大宮司世襲制も終りをつげます。
 本稿を書くにあたって、『梶原家史略』をもとに梶原・毛利家の略歴を御教示いただいた吹田市にお住まいの7代目毛利氏に篤くお礼を申しあげます。
【参考文献】
  『夢物語ー飛州大原騒動回想録』 渡辺政定   昭和49年 飛騨中央印刷
『大原騒動と本郷村善九郎』   萬葉裕一   昭和46年 毎日印刷社
『飛騨の神社』         土田吉左衛門 昭和63年 飛騨神職会
『飛騨人物事典』        小鳥幸男   2000年 高山市民時報社
『宮村記要』          宮小学校   平成4年  大野郡宮村教育会
【参考資料】
  下呂市の的場家に残る文政8年「磔獄門捨札之写」です
「捨札」とは罪状を記した板の事で、刑場やその罪人の村に立てたものです
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