飛騨国竹原郷御厩野村の「幕末村札」見つかる
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地元旧家の蔵から飛騨国竹原郷御厩野村の幕末村札が出てきました。郷土史など文献に記載がなく新しい発見のようです。
『飛騨後風土記』に「上古牧にて馬を放養せし野なりけむ」と出てくる御厩野は、金森家領国時代から乗政、宮地、野尻と共に竹原郷と称しました。明治8年(1875)萩原郷、下呂郷などと共に三郷村となり、その後明治16年(1883)には分割されて竹原村が誕生し御厩野は大字として残りました。昭和32年(1957)竹原村は下呂町と合併し、更に平成16年(2004)下呂市が誕生して「下呂市御厩野」となりました。
安政6年(1859)の『御厩野村宗門人別御改帳』による御厩野村は次のようになっております。
家数合57軒
人別合427人
内
内
百姓 41軒
門屋 9軒
地借 5軒
田屋守 1軒
寺 1ヶ寺
男211人
女216人
60戸足らずの小さな村でよく村札を発行して管理していったものだと思う。
県歴史資料館が所有する『御用留 御厩野口』は天保5年(1834)から元治元年(1864)まで30年間の諸事報告を御番所勤番が高山御役所へ書き送った文書綴です。
調べた内では村札に関する資料は見あたりませんでしたが、たまたま村方三役の黒印を捺した文久3年(1863)の文書が見付かり、この年七月時点での三役は「名主定助,組頭久七、百姓代政助」であることが分かりました。裏面3個の黒印と照合するに上の名主定助と下の百姓代政助は印が合致しますが、真ん中の組頭久七は違うので役が変わっていたのかも知れません。黒印については更に調べをすすめる必要があります。
なお、発行人の「的場」と「中屋」は小字名をそのまま屋号として名乗る旧家で、10代以上続く家柄です。
この村札について古銭藩札研究家のH氏に解説文を戴いたので次に掲載させていただくと共に篤く御礼を申しあげます。
【参考文献】
『飛騨後風土記』 雄山閣 昭和43年
『岐阜県益田郡誌』 大衆書房 昭和45年
『御厩野村宗門人別御改帳』 別稿十七話所載
『御用留 御厩野口』 岐阜県歴史資料館
前期札 法量 約24×84mm
後期札 法量 約32×74mm
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「御厩野村札の通用範囲と額面について」
村札の場合は通用が村内限りであり、広範囲のものでなく低額通用の利便性で発行されるものが理由であろうと推察する。従って、郡代の許認可が必要であろうから名主をはじめとする村三役が請負人である。当然のことながら、村三役に発行責任が生じるので資力・財力の裏付けがないと発行ができない。全国にはとてつもなく財力のある豪商が存在するが、その豪商達も商取引決済の利便性からその信用力でもって札を発行している。この場合は古札の分類上は私札となるのである。経済流通も広くなり、通用範囲も広く国々をまたいでいるものもある。藩の御用商人となれば、藩札発行の請負人になっている者もある。
この御厩野村札は札の形式からみて書き札であり〈前期札3種〉〈後期札3種〉合計6種類に分類される。本札はすべて回収札で再使用されないように紙にハサミが入っている。分類は下記の通りである。
1.前期札
(額面)三拾弐文 廿四文 拾六文
紙質厚手
(表面)子改・赤朱書 (飛州竹原・的場)の黒丸印
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子改とあり一年限りであるので発行は前年の文久3年で
元治元年改と推定される。
(裏面)御厩野村通用・黒墨書 3名の請負人黒丸印
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3人の請負人は村三役の印と推定される。
2.後期札
(額面) 三十二文 弐拾四文 拾六文
紙質薄手
(表面)子・黒墨書 2名の請負人黒丸印
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子とあり発行は元治元年と推定される。二つの黒丸印は的場と中屋と推定される。
(裏面)飛州竹原・的場の黒丸印 飛州竹原御厩野村・中屋の
黒丸印
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請負人は的場と中屋の2名と推定される。
厳密に分類すると、札の形式や請負人から見識するに前期札は村札で後期札は私札となると考えられる。これらの札は幕末に発行され、御厩野村で通用し広くは竹原郷内限りにおいて通用されたものと思われる。幕末に全国の村々において、村札や宿場札・助郷札などが発行されており、多くの額面は四拾八文・三拾二文・弐拾四文・拾六文と低額であることから、日雇賃金・釣り銭や通用の利便性などから発行されたものである。
古札からは当時の流通経済や村の経済力などがよく読みとれるので郷土の貴重な資料であろう。