天保14年(1842)和泉守が領内に発したこの高札を、仮に「浪人札」と名付けましょう。「浪人躰のもの多く徘徊する」のを取り締まるよう通達を出すのは別に掲げる笠松県の御達書にも見られます。このころ「和泉守」を名乗っていたのは『日本史総覧』によりますと、三河西尾六万石の藩主「松平乗全」と出てきます。松平乗全は和泉守→伊賀守→和泉守と役職により官名も変わって行くようで、後に大阪城代になります。確定は出来ませんが、この「浪人札」は三河西尾藩内に建てられていた高札かも知れません。今後の研究課題です。 高札「五榜の掲示」は読み下しがほとんど同じですが、それ以前の高札は一枚一枚が国により、また地方により違うようで難解です。 この高札の読み下しには苗木遠山資料館の先生方に大変お世話になりました。ここにあらためて篤くお礼を申し上げます。