天保14年 浪人札 和泉


天保14年(1842)和泉守が領内に発したこの高札を、仮に「浪人札」と名付けましょう。「浪人躰のもの多く徘徊する」のを取り締まるよう通達を出すのは別に掲げる笠松県の御達書にも見られます。このころ「和泉守」を名乗っていたのは『日本史総覧』によりますと、三河西尾六万石の藩主「松平乗全」と出てきます。松平乗全は和泉守→伊賀守→和泉守と役職により官名も変わって行くようで、後に大阪城代になります。確定は出来ませんが、この「浪人札」は三河西尾藩内に建てられていた高札かも知れません。今後の研究課題です。 高札「五榜の掲示」は読み下しがほとんど同じですが、それ以前の高札は一枚一枚が国により、また地方により違うようで難解です。 この高札の読み下しには苗木遠山資料館の先生方に大変お世話になりました。ここにあらためて篤くお礼を申し上げます。
参考文献 『日本史総覧』 新人物往来社

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  近年諸国在々浪人躰之者多く
徘徊いたし頭分師匠分抔と唱ひ
廻り場留場と号し銘々私ニ持場を定
百姓家へ参り合力を乞、少分之合力銭
遣候得者悪口いたし或ハ押而止宿宅
又者病身と申逗留いたし候、内ニハ種々
難題申掛金銭ねたり糺候趣惣テ不届之
至ニ候、以来右浪人躰之者村方江罷越何様
申候共決而不為致止宿、帯刀をもいたし候
ものハ一銭之合力を不致自然不法申候者ハ
早々差押若手に余り候ハ其所之穢多
非人に為差押御料者御代官私領者領主
地頭役場江可致注進候
右浪人躰之者党を結い押歩行候儀
  及見聞候程又ハ村方江罷越候節不得差押
其所に穢多非人等も無之場所ハ立廻り先等
遂穿鑿是又御料者御代官私領者領主
地頭役場江早々可申立候
右之通可相心得若相背候者於有之者
急度可申付候
天保十四年七月  奉 行
右之通被 仰出候間領内之輩
可相守者也
和 泉



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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