『日本の「アジール」を訪ねて』の「近世以前のほかの資料」前半には、伊勢の旅人松浦武四郎が天保6年18歳のとき、飛騨国竹原郷御厩野村の十王堂で病を癒した折、サンカに出会いなにかと面倒を見てもらう、サンカは「我の如き山家に出合給わば郡上の爺と云え」と云う話が出てくる。
稿の後半には「平成24年夏、わたしは舞台峠の南北麓(下呂市御厩野)で、サンカの言葉が残っていまいかと思って聞き取りをしてみた。それを知っている人には会えなかったが、南麓の中津川市加子母小郷に住む昭和8年生まれの女性から興味深い話を聞くことができた。」というくだりが出てくる。それは「峠の小屋に越前おじいと呼ばれる体の小さな老人がいた」という話だった。「郡上とか越前とか地名・旧国名を冠して呼ばれていたことは移動民の歴史を考えるうえで注意しておかねばならない」と述べておられる。時代は前後するが「ゴウシュウ・江州」「茨城寅」「武州の善」などが例として挙げられている。
小郷の「昭和8年生まれの女性」は民宿の女将「かよさん」ではなかろうか?かよさんの母親は舞台峠下、御厩野から小郷へ嫁して行かれた方なので、子供のころから母親に手を引かれ、また妹たちと何度も小屋の前を通って峠を越されたことと思われる。古絵図に残る舞台峠には南北街道添に二本の檜の大木が画かれているが、一本は戦後まで立っていて、飛騨と美濃の境界だった。その飛騨側に「峠の茶屋」として賑わっていた住家があり、その茶屋の主が「越前おじい」と呼ばれていた。古老の話でも名前は知らないが「越前おじい」で通っていたと云う。かよさんの話では「越前おじい」の「こんにちは」には独特の抑揚があったというから、子供のころから身に付いた越前なまりが残っていたのではないだろうか。舞台峠下、御厩野の丹羽さんの話では荷車を曳いて、南北街道添の店へ仕入れに行かれる姿をよく見かけたという。そして茶店のかたわら、小郷の在所へ行商にも出かけられたようだ。「越前おじいとおばあさん」には「よしちゃん」という養女が居た。昭和2年生まれのよしちゃんは、住居は竹原村であったが、小郷の在所が近いので加子母村の学校へ通い、長じて京都へ嫁して行かれたと云う話であった。