史 跡 大 威 徳 寺 の 案 内


 下呂町の北東、加子母村と境を接する舞台峠に続く台地に「県史跡指定第67号 鳳慈尾山大威徳寺(ほおじびさんだいいとくじ)跡」がある。約10haの土地に二王堂礎石、本堂礎石、鐘楼堂跡、三重塔跡等が残り、付近には苔むした五輪塔、長命の泉、畠山重忠寄進と伝えられる秩父杉の八畳間ほどの切り株跡、鎌倉銀杏跡、鎧掛け松跡等が見られ、西観音平、馬場、茶の木畑、鎮守尾、そして般若谷等の地名に往時がしのばれる。
 『飛騨国中案内』には、境内に桜の木2本、銀杏の木1本を秩父の重忠、和田の義盛等が植えたとあるが、『美濃御坂越記』によると、恵那武並大権現に鎌倉から杉など樹木多数を持ってきて植えたと言うような記述からこれが当時の流行であった事が窺える。
 『益田郡誌』などに記録が残る様に、郡上長滝寺の塔頭阿名院(たつちゅうあみょういん)に移住した小郷多聞坊(たもんぼう)の僧慶俊が経文の奥書に書き記したものが当時を物語るものであったとされているが、現在は見あたらない。高山宗猷寺(そうゆうじ)の11世北州和尚筆(1811年没)の「大威徳寺略記」が唯一残って居る資料である。それによると、「本堂丈間五間四方、地蔵堂、大黒堂、講堂、鎮守、拝殿、鐘楼堂、三重塔、二王堂、坊数12坊、東坊、多聞坊、南坊、竹林坊、西坊、聖林坊、吉祥坊、北坊、宝光坊、池坊、満月坊、福成寺と、又、本尊は大威徳明王、塔は大日如来、鎮守は伊豆、箱根、熊野、白山四所なり。」と記されている。中津原萬福寺第三世良玄は宝光坊に住し、御厩野(みまやの)には西坊跡、宮地には福成寺跡(一説に福来寺)小郷には多聞坊跡、桑原には極楽寺跡、万賀には道照坊跡があり、東白川村神土の常楽寺、大沢の蟠竜寺(ばんりゅうじ)(共に明治初年苗木藩が強行した廃佛毀釈(はいぶつきしゃく)によって取り壊された)そして佐見吉田の大蔵寺に至るまで末寺であったと言われているのを見ても、その勢力範囲の大きさがうかがえる。
 創建については伝説の域を出ないが、源頼朝の願旨により永雅上人(一説に文覚上人)がこの地に杖を曳いたところ大龍があらわれ、たちまち牛の背に乗った小童の尊容に変じたのを見て「霊地なり」として頼朝に具申、牛の背に乗った六足尊すなわち大威徳明王を祀り、伽藍を建立したと言い伝えられている。また、二代将軍頼家(一説に最明寺入道時頼とも言う)が大威徳寺に詣でた折に、白拍子達の舞を観たと言うところから舞台峠の名がついたと言われている。
 『益田郡見聞書留』には、「鎌倉殿以勅意建立開山永賀上人と云叡山の末寺なり」と他書にはない「比叡山の末寺」という文言が出てくる。
 時は移り、諸説はあるが元亀元年(1570年)苗木城主遠山直廉が飛騨侵攻を企て、飛騨国主三木良頼の弟で桜洞城主三木次郎右衛門と「威徳寺の戦い」が起きる。苗木遠山史料館に残る「急度以飛脚申候」で始まる甲斐武田信玄の書状は「此の刻用捨無く飛州へ越境」するよう催促していて当時の時代背景がわかる。苗木方の記録によると「即時に攻め破り、残党の籠もる大威徳寺に火をかけて焼き払う。月毛の馬に乗って下知する直廉に流れ矢が当たり、この傷がもとで翌年亡くなる」また「飛騨国竹原まで焼き払い」と伝えている。続いて天正十三年(1585年)帰雲城埋没で知られる大地震が起きる。天正乙酉(いつゆう)大地震とも尾勢大地震とも、あるいは加賀地震とも飛州大地震とも言われ、震域の最大半径は300km、地震の規模はM8.1と推定されている。この地震で殆どの堂宇が壊滅したと言われる。
 大威徳寺の倒壊に時を合わせるように、冬城・桜洞城、夏城・松倉城に拠り飛騨を支配した武将三木自綱は、越前大野城主金森長近に攻められて飛騨を明け渡す。三木氏は富山佐々成政と通じ、金森氏の後立ては羽柴秀吉であった。
 幕末から明治時代にかけてこの地が開墾され桑畑になった頃、懸仏一面が発掘された。その尊像は聖観音菩薩坐像であり、左手に蓮華を執る形を示す。こうした懸仏は平安時代から鎌倉時代にかけて多く造られ、仏堂や社殿の内部の壁面にかけられた。昭和30年代に入植した人によって、鎌倉時代作と言われる聖観音菩薩立像の懸仏一面が発見され、いずれも御厩野阿弥陀寺に祀られている。また同寺には、大威徳寺から山越えして来たと言うので名付けられた「山越阿弥陀如来」一躯も祀られている。その他大威徳寺ゆかりの仏像として、乗政三石地蔵堂に「地蔵王菩薩」一躯、高山宗猷寺に「観世音菩薩、延命地蔵尊、薬師如来」の三躯、高山神通寺には佐見大蔵寺に祀られていたと言う「聖徳太子像」一躯、(旭光山大蔵寺は文政五年焼失する)そして加子母村法禅寺には「多聞寺本尊再興」と背書きされた「観音菩薩」一躯が祀られている。
 『飛騨編年史要』によると応永五年(1398年)十二月大威徳寺の僧、所々を勧進して大般若経を購う、今は東白川村に伝来すると言う。また、天正七年(1579年)四月宝光坊良玄、阿弥陀経を書写し、中津原村萬福寺に伝来すると言う記述から宝光坊は寺域内にこの年迄は有ったと考えられる。後に、宝光坊良玄は萬福寺第三世として名を残す事になる。
 寛文九年(1669年)の『竹原郷田畑高帳』写によると、「安国寺領みまやの村鳳凰山大威徳寺 田方1反6畝14歩 畑方1反1畝29歩」とあるが、わずか26年後の元禄八年(1695年)の『御厩野村田畑屋敷御検地水帳』によると、「大威徳寺跡 荒場6畝12歩 山内5町1反5畝歩 灘郷高山 宗猷寺抱」となって居る。正平二年(1347年)開基の国府安国寺から、住職で妙心前住の南叟宗安を開山に迎えた寛永九年(1632年)宗猷寺は「太平山新安国寺」とも云われた。このあたり寛文高帳の記録違いか検証が必要になろう。
 『萩原町誌』は慶長年中、禅昌寺第五世功叔宗輔(慶長14年遷化)が西の坊跡地に巌谷山阿弥陀寺を再興建立して開山となったことを記している。阿弥陀寺は明治初年現在地へ移転する。
 加子母村の記録によると、大威徳寺へ水を引くために小郷の奥から取水が計画され、山を掘り割って工事を進めたが同寺の廃絶によって放棄されたと言われる。後に小郷用水として使われ今日に至って居る。
 なお、大威徳寺の山号については次のような諸説がある。『飛騨国中案内』には「松尾山」、『飛州誌』には「鳳慈尾山」又は「傍至尾山」、『斐太後風土記』には里伝に「鳳凰山」と言う、と寛文『竹原郷田畑高帳』写の記載を採って居る。

 {参考文献}
  岐阜県『岐阜県史通史編中世』 昭和44年
長谷川忠崇『飛州志』
富田禮彦『斐太後風土記』第2巻
上村満義『飛騨国中案内』 昭和45年復刻版
岡村利平『飛騨編年史要』 大正10年
原舊冨撰『美濃御坂越記』
苗木遠山家蔵『苗木物語』
益田郡役所『岐阜県益田郡誌』 昭和45年復刻版
飯田汲事『天正大地震誌』名古屋大学出版会 1987年
東白川村誌編纂委員会『新修東白川村誌』通史編 昭和57年
加子母村誌編纂委員会『加子母村誌』 昭和47年
白川町誌編纂委員会『白川町誌』 昭和43年
萩原町誌編纂委員会『萩原町誌全』 昭和37年
加子母村文化財保護審議会『加子母の歴史と伝承(続編)』 平成2年
都仙法師『益田郡見聞書留』 昭和61年復刻版
桐谷忠夫『不殺の軍扇金森長近』 1999年
濃飛展望社『飛騨寺院風土記』 昭和52年
星野直哉「大威徳明王彫像とその周辺」『飛騨春秋』 1999年11月号
寛文九巳酉年『竹原郷田畑高帳』写 宮地地蔵寺蔵 『飛騨下呂』所載
元禄八年『飛騨國益田郡竹原郷御厩野村田畑屋敷御検地水帳』御厩野区蔵
下呂町史編集委員会『飛騨下呂』史料1,2,通史・民俗  昭和58年



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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