『太政官日誌』で見る高札
「きりしたん邪宗門之儀」


『慶応四年戊辰三月 太政官日誌 第六』に(1868)三月十五日最初に掲げられた「きりしたん禁制高札」が載っております。(太政官第百五十八号布告)
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 第三札
   定
きりしたん邪宗門之儀ハ堅く御制禁たり若不
審なるもの有之者其筋の役所江申出べし御ほ
ふび下さる遍く事
  慶応四年三月     太政官

「きりしたん禁制高札」は欧米各国の反発を招きましたが、「きりしたん邪宗門」と続く文言には欧米の外交官からも強い抗議を受けました。そこで明治新政府は布告を二ヵ条に書き改めて出し直しました。

      定
一、切支丹宗門之儀は是迄御制禁之通、固く可相守事
一、邪宗門之儀は固く禁止候事
   慶応四年三月      太 政 官
 切支丹と邪宗門とは別であるけれども、キリスト教禁止の命令は変わらない、と言うわけです。江戸時代の邪宗門とは日蓮宗の不受不施派・三島派などを云います。
 しかしながら一方では、安政五年(1858)五ヶ国との修好通商条約締結により、ローマ・カトリック教会、ギリシャ正教会、プロテスタント諸教会の宣教師たちが、外国人居留地に移り住んでおり、隠れキリシタンの再教育や指導に専念しておりました。
  やがて諸外国の圧力に屈した政府は明治六年二月二十四日(1873)太政官第六十八号布告により、「きりしたん禁制高札」を撤去しました。政府は高札を撤去しましたが、キリスト教を公許したわけではありません。宣教師達の一時的な喜びとはうらはらに弾圧はまだまだ続き、いろいろな事件が起きました。信教の自由が保証されるのは明治もずっと後になってからのことです。
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この稿は鈴江英一著『キリスト教解禁以前 - 切支丹禁制高札撤去の史料論』 高木一雄著「明治政府によるキリスト教の公許」に依存しております。
【参考文献】
『キリスト教解禁以前・切支丹禁制高札撤去の史料論』鈴江英一 平成12年 岩田書院
『歴史手帖』「明治政府によるキリスト教の公許」  高木一雄 昭和51年 名著出版



 
           
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
           

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