大威徳寺が所在する下呂市御厩野の小字の下には、古来言い習わされてきた通称名(孫字)が残っている。今回、教育委員会より調査の依頼を受け、古老の聞き取りや御厩野区所有の『検査絵図写』(明治24年調整・大正2年写)等の調査により、80以上の孫字を確認することができた。その中には、もちろん寺院とは関係の無いと思われる名称も含まれるが、われわれが生活する御厩野の歴史を物語る貴重な資料であり、この度、「山寺サミットin下呂温泉」が開催されるにあたり、その中間報告として、これまでの調査成果の一端を報告するものである。
現在、御厩野に残る小字名については、『益田郡誌』(大正5年)、『飛騨下呂 図録編』(昭和55年)などの先行研究があり、その実態はほぼ明らかになっていると言えよう。それらに加え、区所有の『元禄検地帳』を参考に小字名を一覧表にし、これまでに確認した通称名を加筆したのが第1表である。
小字名から大威徳寺を考察した研究は少ないが、地元御厩野の郷土史家である故渡辺政治(真砂路)氏は、その著述の中で、大威徳寺の12坊のうちの一つに数えられる西の坊の系譜を引くと伝えられる阿弥陀寺周辺に残る、「門前」「寺渡瀬」などの地名に加え、「ボタ(坊田)」「西のボタ(西の坊田)」「的場」「木戸場」などが寺院に関する地名ではないかとされている。また、字大平地内に残る地名である「山越渡」は、すなわち「山越堂」のことであり、ちょうど木曾への交通の要衝である鞍懸峠(1,408m)の登り口に位置することから、ここに仏堂があったのではないかとされている。
『元禄検地帳』では99の小字名が、『益田郡誌』では123の小字名が記されており、『元禄検地帳』に記載があって、『益田郡誌』に記載がない地名が17、その反対に『益田郡誌』のみに記載される地名が41見られるが、その多くは、現在の御厩野区周辺の山林部に位置する字名である。検地帳は本来農地や宅地を記録したものであるため、大威徳寺の所在する字威徳寺や、周辺の字米搗平、直野般若谷、茶木畑、小田畑などの山林部について記載がないのはいたしかたないとしても、大威徳寺跡について、高山宗猷寺の抱として、第1表中の注@のような記載が見られることは、宗猷寺に残る古文書の内容と矛盾するものではなく、発掘調査で明らかになってきたとされる、江戸時代初期の大威徳寺の動向を立証する記載としても、注目に値すると言えよう。
なお、字威徳寺地内では「鎮守尾」「五輪石平」「西ケ平(西観音平)」「本堂」「本堂北ノ沢」などの、寺院に関わると思われる通称名を確認することができた。
また、村抱として『元禄検地帳』に記載のある「札立野」「的場」「弓立」などのうち、「弓立」は『益田郡誌』に記載はないが、「的場」が「大威徳寺の僧兵が弓の練習をした場所である」との説があることを考慮すると、それに類する地名として大変興味深いものと考える。
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