「十王堂は鳳慈尾山大威徳寺の受持であった」という古老の言い伝えがあるので創建はかなり古いと思われるが創建時の棟札は無い。大威徳寺とその末寺西の坊(後の阿弥陀寺)との中間に在り、南北街道から数百b入った字林畑にあった。堂宇は間口約6.50b、奥行約5.90b、板の間は約6.30b×約2.70bで、境内約170平方bあった。明治になって向かい正面に県文化財の「鳳凰座」が日枝神社境内から引越してきた。
子供の頃、夕方になると悪童連が集まってきて馬乗り遊びをするのに丁度いい板の間があって、十王を祀る祭壇とは格子戸で区切られていた。昔は旅人が雨露を凌ぐ仮の宿になったと云う話も残っている。大威徳寺廃絶後は巌谷山阿弥陀寺の管理となり、昭和33年に同寺境内に移され、同46年に下呂町文化財に指定された。生前に十王を祀れば、死んでから罪を軽減してもらえるという信仰から十王堂が造られた。棟札には享保6年(1721)の再建、天明2年(1782)の修理と十王仏彩色、嘉永6年(1853)の建替え、次いで明治16年(1883)の十王仏・壁画再彩色が記録されている。この時地元の画家和合蘭岱が関わったという言い伝えがある。十王の並ぶ背後の壁画は地獄絵図で、刀・棍棒を持った鬼の間に業火に焼かれ、釜茹でにされ、人面牛馬となった亡者の姿が極彩色で描かれている。
阿弥陀寺木村住職のお話によると、「京都の画家に書いてもらった」という話が伝わっているという。各地の寺などに地獄極楽絵図の条幅が残されているが、この元になるものは大津市比叡辻にある紫雲山聖衆来迎寺の「絹本着色六道絵図十五幅」で鎌倉時代の作と云われ、国宝に指定されている。日本天台宗比叡山の僧、源信・恵心僧都は延暦9年(1001)『往生要集』を著し、来迎寺に移り住み念佛道場として再興した。これをもとに六道輪廻の世界を多くの絵師が手がけたのであろう。六道とは「天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄」を云い、生きとし生けるものは亡者になると六道の中で生まれ変わる輪廻を繰り返す。閻魔大王の裁きを受けて娑婆での行いを右側の記録者「善業」左側の記録者「悪業」の記録に従い全て鏡に映しだされる。そして地獄に落ちたものには絵図に表わされた「等活・黒縄・衆合・叫喚・焦熱・阿鼻」が待っている。浄土信仰はこの絵図を前に阿鼻叫喚の地獄から救われるには「ただひたすらに念佛を唱えよ」と説いて布教を広めたのであろう。絵の上方には亡者たちを迎えに西方極楽浄土から阿弥陀如来と諸々の菩薩(聖衆)が現れ、明るい光の手を差し伸べている。