みまやの の はなび 御 厩 野 の 煙 火 |
古びたタンスに入った御厩野区長の引継荷物のなかに、万総議事録が残って居る。その一冊、大正十四年(1925年)の議事録にこんな一頁がある。
「煙火ハッピ競売の件、 一枚花田、一枚徳助、一枚伝兵衛、一枚定吉、一枚員太郎、以下略。 代金一枚壱円」にて二十枚が分けられている。 もう七十余年も昔のことだ。ハッピはどの家にも残っていないだろう。世の中も段々と不景気になり、豊作を祝う秋祭りも煙火どころでは無くなってしまったのだろうか。明治四十三年(1910年)銃砲火薬類取締法の施行によって銃砲と共に火薬の取扱いも厳しくなり、大量の輸入に頼っていた産業用火薬類も大正三年(1914年)第一次世界大戦の突発により輸入がストップしてしまう。そんな事も下火になった原因の一つだろう。 御厩野の内、川下六十戸が氏子の日枝宮では九月二十日秋祭りが執り行われ、「御厩野の煙火」として「芝居」「昼風呂」と共に近郷近在に名の通った秋祭り最大の呼び物であった。日枝宮からアタガサマの山まで大木の天辺や柱が立てられて、太いワイヤーが張られ綱火が仕掛けられた。夕闇が迫る頃、綱火に点火され火が走った。一斉に沸き上がる喚声と共に子供たちが火の後を追って走った。日枝宮の煙火堂に籠もった人達が十日余りも掛けて作った五寸玉、六寸玉が次々と打ち上げられて御厩野の祭りはクライマックスを迎える。 煙火の筒は木を刳り貫いて作り、全体に「竹のたが」をはめて締める。各サイズ毎に作り、長さは一bから一b五十aくらいである。鳳凰座(芝居小屋)の花道の下に保存してあったが下呂町の合掌村がオープンするとき展示用に貸し出された。御厩野の旧家に火薬を調合した時に使ったと言う六十aもある薬研や、紙を貼り重ねて「がわ」を作ったと言う三寸玉の木の芯、そして、移築されて形は変わったが煙火堂などが残されて居る。
御厩野小県宣夫氏宅に、『明治四年見聞記』(1871年)と言う曾祖父小県忠左衛門(1843年〜1920年)が書き綴った煙火の記録が残って居る。
「三州流江戸桜、銀玉、下り竜、天下無双、蛍合戦、花三国一、花嵐山、鳳凰、道成寺」等々百数十種の名称と共に、火薬の調合割合いが書かれている。但し、エ、イ、ハ、デ、ハサ、ハマツ、ハナツ、等と符号で書かれ、「口伝」などと云う言葉が出てくる処をみると企業秘密であったのだろうか。日本在来の煙火は「和火」と云われ、主として硝石、硫黄、木炭などで作られた。明治十二年(1879年)頃から塩素酸カリが輸入される様になって「洋火」と言われる色彩が明確な煙火が出来るようになる。 「明治二十九年(1896年)一月三十一日
竹原出身軍人凱旋祝賀会祝砲煙火 昼は 四寸、四寸五分、六寸を上げる。 夜は 一瓢を提げ養老の滝見 四寸。 滝は狼煙玉、瓢は竹紙にて始め七十枚を以て 継ぎ合わせ之を造る。 右上出来」 忠左衛門は剛毅果断、そして太っ腹な親分肌の人であった。労を惜しまず各地を廻って秘伝を習い、煙火を見て技術を得たと言われる。
「三河岡崎町、近藤米次郎伝、三種類
高山 藤井孝太郎伝 赤色 硝酸ストロンチャン
青色 花緑青(パリスグリン) 等々色の出し方 焼石 細江深太郎伝 四種類
佐々木口伝 十七種類 増田口伝 十一種類」 「塩酸加里は他の品と混合すれば爆発して甚だ危害を生ず、よって各原料品毎に個別に細末にして紙上に於いて、竹へらを以て静かに混合すべし、能能注意すべし。」 実際に
「明治三十六年(1903年)九月十四日製造場にて擂り鉢黄烟枡より発火、綱火二十擂り分、他打ち上げ分二十擂り炎焼する。」事故もあったがそれにも怯まずこの年は 「火薬 一貫匁 三円六十銭
硝石 同 一円五十銭 硫黄 同 六十二銭 樟脳 百六十匁 一円五十銭」 を仕入れて 「昼煙火 九十個 よし 打上げ 七十六個 早打ち三寸三十発 綱火至極上出来 六寸筒新造す、 六寸玉 花園 造る 上出来」 「よし!」「上出来!」俄煙火師たちの掛け声が聞こえて来るようだ。御厩野の煙火がすごかったのは研究熱心なリーダーが居て、失敗にめげず、みんなが協力して手作りで成し遂げた事であろう。古き良き時代の煙火の話である。 (故人敬称略)
|
『飛騨春秋』 2000年 9月号 掲載 |
|
||||||
|
||||||
|